空母「信濃」艦長 阿部 俊雄海軍少将 | 戦車兵のブログ

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阿部 俊雄(あべ としお、1896年4月27日 - 1944年11月29日)は、日本の海軍軍人。


太平洋戦争においてバリ島沖海戦において武勲を挙げ、のち空母・「信濃」艦長として戦死した海軍少将である。


愛媛県出身。阿部弘毅中将は兄。


海軍兵学校46期。阿部は水雷学校高等科を修了し、同校教官や教頭、「朝霧」駆逐艦長を務めた水雷科専攻士官である。


第八駆逐隊司令として太平洋戦争を迎え、バリ島沖海戦では駆逐艦4隻で優勢な連合国艦隊を撃退した。


第十駆逐隊司令としてミッドウェー海戦に参戦。連合艦隊旗艦であった軽巡洋艦「大淀」艦長を経て、1944年(昭和19年)10月1日に「信濃」艦長に就任。


同年11月29日、アメリカ海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」の攻撃を受け、信濃は沈没し阿部は退艦せず戦死した。


一階級特進し少将に進級。享年48。

阿部は、未だ艤装工事が終わらない「信濃」を横須賀から松山沖へ回航するよう命令された。


信濃を護衛するのは第十七駆逐隊の駆逐艦3隻で、航空兵力は艦上攻撃機3機があったとする説がある。


出航時間及び航路につき航空機による攻撃を懸念した阿部と、潜水艦による攻撃を懸念する駆逐隊との間で議論があった。


阿部は夕刻・遠州灘南方コースを選択したが、第十七駆逐隊は昼間・沿岸コースを主張していた。


「信濃」は潜水艦により撃沈されており阿部の選択に対する批判もあるが、「信濃」は工事を急がされた関係で防御区画に不備があり、また水中聴音機が故障していたなど、「信濃」の戦列参加を急いだ海軍中央への批判も存在している。