部下の前では泣かない指揮官 | 戦車兵のブログ

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ピグでお話していたら映画で部下を失った指揮官の話になった。


映画で描かれる指揮官像は古今東西共通する面がある。

映画「プライベートライアン」でトムハンクス扮する大尉の部下が戦死するシーンで、トムハンクスが部下から見えないところで泣き、決して泣き顔を見せず平気な顔をして冷徹な指揮官を装うシーンがある。


部下の前では指揮官は泣かないし不安な顔はしないというのは立派な指揮官だね。


不安な顔ばかりして部下が戦死する度に泣き落ち込んでいる姿を見せていたら士気に影響する。


ブラッドピット主演の「フューリー」でも同じようなシーンがある。

戦車長役のブラッドピット、その部下の前方銃手が戦死してしまう。


なんとか部隊へ合流したあとに部下から見えないところで一瞬だけ泣く、後はなんでもない平気な顔をする。

部下は「こりゃ不味い」って不安に思うような時に指揮官の顔色を見ることがよくあるものだ。


これは訓練をやっている時にもよくある。


戦車安全五訓に「不安な時は止まって確かめよ」というのがあるが、新米戦車乗りはときとして状況判断できずに思わず車長の顔を見ることがあるる。


もちろん戦車の操縦手では車長の顔は見えないのでAPCに乗った大特免許取得時操縦訓練の話だ。


「お前等は不安な時は車長の顔見よだな」と先任助教に言われたものだ。

零戦の話でも、列機が心配そうにしているのを見た指揮官が己も心配で不安なのを隠すようにバナナを食べたり、平気だという顔をして頼もしい指揮官を演じていたという。


それを見た部下は安心するし指揮官を頼もしいとも思うし、指揮官に付いて行けば間違いないと思うものなのだ。


指揮官が迷っていたら不安になるし「大丈夫か?この人?」って思われたら不信感があるからね。

映画「二百三高地」で乃木大将の長男勝典中尉が南山の戦いで戦死したとの報告を受ける。


南山は旅順港攻撃の前哨戦のようなもので、一日で4千名の戦死者を出し、桁が一つ違うのではないか?と思われるくらい大損害を出した戦いであった。


乃木大将は妻の静子夫人に電報を打った「勝典戦死喜べ」と。


乃木大将は部下の前で悲しむ訳にはいかなかったのだろうと推察する。


軍人の家に生まれ、軍人となった長男が戦死したからと言って泣いた顔を見せてはいけない。


多くの国民は徴兵され父親や夫、息子が戦死しているのだから・・・。


後に勝典中尉の戦死した金州城で詠んだ漢詩がある。



山川草木(さんせんそうもく)轉(うたた)荒涼、


十里 風腥(なまぐさ)し 新戰場。


征馬(せいば)前(すす)まず 人語らず、


金州城外 斜陽に立つ。



思いが伝わるね。

日露戦争が開戦すると静子夫人は、出征する希典(出征時は陸軍中将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入して贈った。


当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。


当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当する。


静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息が不憫この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。


1904年(明治37年)5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した(死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進)。


この後、勝典の戦死の知らせを聞いた静子は深い哀しみに暮れ、三日三晩泣き続け、一説には血の涙を流したともいわれる。

棺を3つ用意しておけと乃木大将は静子夫人に言っていたそうだ。


次男保典少尉が戦死した時、乃木家は断絶することが決まった。


さすがにショックであったろう。


しかし部下の前では決して涙は見せなかった。

凱旋後に詠んだ漢詩


皇師くゎう し 百萬  強虜きゃう ろを征し,

野戰 攻城  屍しかばね 山を作なす。

愧はづ 我われ 何の顏かんばせありてか  父老 ふ らうを看みん,

凱歌がい か  今日こんにち  幾人か 還かへる。


明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木大将は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。


山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木大将を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。


しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木大将を学習院院長に指名した。


明治天皇は、乃木大将の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠んだ。


『いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ』


また明治天皇は、乃木大将に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる。



見ていてくれる人がちゃんとちゃんといるという話だね。


乃木夫妻は明治天皇が崩御された際に殉死した。