最後の元残留日本兵、小野盛さん死去 インドネシア独立戦争に参加 | 戦車兵のブログ

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日本がかつて戦った戦争の生き証人がもう「最後」のと言われる程どんどん減ってゆく。
以下産経ニュースより転載



 第2次大戦後、インドネシアに残り対オランダ独立戦争に参加した元残留日本兵の小野盛さん(インドネシア名・ラフマット)が25日朝、東ジャワ州マランの病院で死去した。
94歳。親族によると病死。互助組織は、小野さんが最後の元残留日本兵としている。

 19年、北海道生まれ。42年にインドネシア・ジャワ島に出征した。


敗戦後、軍を離脱し対オランダ独立戦争に参加、ほかの残留日本兵やインドネシア兵らと部隊をつくり、戦果を挙げた。戦時の事故で左腕の肘から先を失った。


 独立戦争後もインドネシアにとどまり、現地の女性と結婚。農業に従事した後、日系商社に勤めた。


 互助組織などによると、インドネシア独立戦争に参加した残留日本兵は約千人で、半数が戦死、行方不明になった。同組織の会員は200人以上いたが、小野さんが最後の1人となっていた。(共同)

1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、日本軍の死者は1078人を数え、この人数は日本軍の蘭印侵攻時の戦死255名、負傷702名を上回るものだった。


この死者数は、武器譲渡をめぐる独立派との衝突や、連合国側の進駐軍が現地の治安確保のために日本軍部隊に出動を命じて戦闘になったこと、などによるものだった。


また、日本の敗戦後、インドネシア側の武装勢力に身を投じて独立戦争に参加した日本人も数多い。


彼らが独立戦争に参加した動機はさまざまである。戦前・戦中、日本が大東亜共栄圏、東亜新秩序を打ち出していたことから、欧米からのインドネシア解放・独立の為にインドネシアの独立戦争に参加し、インドネシア人と「共に生き、共に死す」を誓いあった者や、日本に帰国したら戦犯として裁かれることを恐れたためにインドネシアに残留した者、また日本軍政期に各地で結成された郷土防衛義勇軍の教官としてインドネシア人青年の訓練にあたった者の中には、その教え子たちに請われて武装組織に参加した者もいる。

これらの「現地逃亡日本兵」の独立勢力への参加については、連合国側はきびしく禁じており、日本軍の現地指導部でも、在留日本人の引揚げに悪影響を与え、ひいては日本の国体護持や天皇の地位にまで悪影響を与えるとして、対応に苦慮した。


インドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃、両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちであった。


独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ、各地の英雄墓地に葬られ、戦後生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられたインドネシア人として、これらの墓地に埋葬される予定である。


1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。

『市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。1958年8月15日東京にて。スカルノ』


その石碑が東京青松寺に建てられている。


「インドネシアと日本軍政」についての研究は、1950年代から欧米諸国ではじめられ、日本軍政がインドネシア社会に大きな政治的インパクトを与え、現地のナショナリズムを刺激し、脱植民地化を加速させたとの評価が一般的となった。


その一方で、日本軍政が現地社会の分裂や対立を先鋭化させたと結論づける研究もある。


日本国内ではしばしば「インドネシア独立への日本軍政の貢献」という評価がなされることがあるが、そうした評価について韓国等から批判の声が出ることもある。