8月15日命日の軍人多いね | 戦車兵のブログ

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8月15日の記事を書こうと軍人の命日を調べていたら、かなり多いことを知った。


紹介しきれないのが残念だ。


あの石原莞爾中将は昭和24年(1949年)8月15日に亡くなっている。


「世界最終戦論」など日本では数少ない軍事思想家としても知られる。


「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。


関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。

阿南惟幾[あなみ・これちか] (陸軍軍人,陸軍相(33代)) <58歳>


「一死ヲ以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残し割腹自決。


1945年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。


太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において陸軍大臣の立場として戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自決した。

宇垣纏[うがき・まとめ] (海軍軍人) <55歳>玉音放送後に沖縄へ特攻する。


1945年8月15日正午、日本の降伏とポツダム宣言の受諾を伝える玉音放送が発せられる。


これを受けて宇垣は「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」「余又楠公精神を以て永久に尽くすところあるを期す。

一六○○幕僚集合、別杯を持ちあり。之にて本戦藻録の貢を閉ず」と戦藻録の最後を記す。


自ら中津留大尉の操縦する彗星43型に搭乗する。


彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった。


海軍兵学校同期である第十二航空戦隊司令官城島高次少将、及び幕僚である宮崎隆先任参謀、横井俊之参謀長から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と、その決意は揺らぐことはなかった。


特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した。


出撃前の彗星前で撮った写真に彼は笑顔で写っている。


高官が死地に赴くときには階級を示すものを外す習慣があったため、軍服から中将の階級を外し、そして山本五十六から遺贈された短刀を持参している。


宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えた。


森 赳陸軍中将


1945年8月14日、ポツダム宣言受諾に際し、東部軍管区参謀不破博中佐の訪問を受け、「承詔必謹」の方針を確認する。


その後、蓮沼蕃侍従武官長のもとを訪ね、師団長室に戻ってまもなく、東部軍管区司令部に参集を命ぜられ、田中静壱司令官から正式に終戦の大命を伝達される。


8月15日未明、宮城事件が勃発する。このとき近衛師団司令部の師団長室において義弟の白石通教中佐と談話中であったが、井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、窪田兼三少佐らに面会を強要される。


井田中佐に決起を迫られたが、クーデターへの参加を拒否したため、畑中少佐から発砲を受け、更に航空士官学校の上原重太郎大尉に軍刀で斬りつけられ、殺害されたと、相当期間信じられていたが、その後の角田房子の調査などで、森師団長を軍刀で殺害したのは、窪田少佐であることが確認された。

 上原大尉は、上官の強唆もあり、その後自決。


源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。


海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、343空司令として終戦を迎えた。


自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。


航空自衛隊の育ての親。政治家としては参議院議員を4期24年務めた。


赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。


1945年8月17日源田は、軍令部部長富岡定俊少将より皇統護持作戦を受けた。


敗戦によって国体に危機が迫った場合、皇族を匿い皇統を守る作戦であった。


准士官以上で、源田とともに自決する志願者を集い作戦参加者を選別した(妻帯者や長男は帰らされた)。


生涯をかける他言無用の任務であることの説明があり、23名で盟約を結んだ。


熊本県五家荘村を候補地として隊員は復員したが、天皇制存続が決まり活動は終了する。


富岡は終戦から2年ほどして作戦の解消を伝えた。


源田は解消を側近には伝えたが徹底はしなかったため、活動実態のない形だけの盟約が残った。


杉ノ井旅館で集まったが、解散の辞を用意するも人払いができず、切り出すことができなかった。


1981年1月7日東郷神社和楽殿に招集し源田より同志生存者17名を前に皇統護持作戦の終結が正式に伝達された。


源田から「計画が発動されなかったことが最大の成功だった。我々は目的を達し使命を果たした。我々の行動は無駄ではなかった」と解散の訓示が行われた。


1953年(昭和28年)、防衛庁入庁、航空幕僚監部装備部長として、航空自衛隊に入隊する。


自衛隊人事を作っていた初代航空幕僚長上村健太郎が佐薙毅を副長に依頼するとき、佐薙が「源田をとるなら」という条件を出したため要請された。


戦前源田が対米強硬派の艦隊派であったことを理由に旧海軍の権力者が反対し人事をやり直すように指示すると上村は「佐薙も源田も必要だ。駄目なら私も辞退する」と言って人事を通した。


1959年(昭和34年)7月18日、航空幕僚長就任。1959年12月、米空軍サンダーバーズの日本公演を見た源田は航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出す。


源田はブルーインパルスの育ての親となる稲田淳美をバックアップし、当時疑問視された編隊飛行訓練を公的に訓練可能とし事故も名誉ある扱いに処置し、選定された者のみ行うよう規制もした。


東京オリンピックで陸海自衛隊には協力分野があるが空自にはなかったため、源田は空に五輪を描くことを発案する。


当時の技術的な事情から困難でパイロットからも不可能だと思われていた。


源田は実現のためブルーインパルスの演技に政治家やJOC、財界人など関係者を招待した。

当時事情を知らなかった隊員は冷ややかだったが、後に源田のおかげで五輪フライトが実現できたことを知ったという。


源田は自衛官退職時に引き継ぎ事項へ五輪を描くことを入れた。


国会議員時代に源田は東京オリンピック開催準備委員長津島壽一に五輪フライトを提案し実現した。


防衛・憲法・天皇問題などに取り組み、戦争の愚かさ、核の恐ろしさを強く説いていた。


職業軍人の経歴から文民統制の問題もあり入閣することはなかった。


参議院議員、自民党党務として弾劾裁判所裁判長、国防部会長、宇宙開発特別委員会委員長、安全保障特別委員長、科学技術特別委員長、航空対策特別副委員長、安全保障調査会顧問、基地対策特別委員会顧問などを歴任する。


軍人時代の習慣で5分前行動を守り、空中勤務体験は国会でも貴重とされた。


末国正雄(海兵同期)によれば源田は国会や議事堂ほど日本語の通じない場所はないと話していたという。


1960年代後半、中華人民共和国が核を保有したことを受けて危機感を持った源田を中心とする政治家は外務省に安全保障の観点から核燃料サイクルによる核戦力のオプションについての議論を働きかける。


矢田部厚彦(外務省国際局科学部長)によれば外務省でも防衛外交上必要と考えていたという。


また源田らの議論について「日本が核兵器を持とうという議論ではなく、将来有事の際に核のオプションを失ってはいけない。


安全のためいつでも核武装できる体制を維持していこうという議論であった」という。


源田は信念を持っていたが、議員会館に呼び出されて断念させられた。


晩年の数年間は、厚木市愛名の自宅近辺を愛犬と散歩する姿がよく見かけられた。


体調を崩し343空の思い出の地である松山で療養していたが、85歳の誕生日を迎える前日、44回目の終戦の日でもある1989年(平成元年)8月15日、松山市南高井病院で脳血栓のため死去。
享年84。


松林 宗恵(まつばやし しゅうえ、1920年7月7日 - 2009年8月15日)は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。本名、釈 宗恵(しゃく そうけい)。


龍谷大学専門部を卒業。日本大学芸術学部に移り、在学中の1942年に、映画に仏心を注入したいと考え東宝撮影所の助監部に入る。


学部を短縮卒業して海軍第三期兵科予備学生となり、1944年、海軍少尉に任官、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長となる。


戦後復員して東宝に復職。その後、東宝争議に際し、渡辺邦男、斎藤寅次郎らに従って新東宝に移った。


1952年に上原謙主演の『東京のえくぼ』で初監督。藤本真澄プロデューサーの東宝復帰に伴い、新東宝を退社して東宝に復帰。


以降は、森繁久彌主演の『社長シリーズ』をはじめとする喜劇や『連合艦隊』をはじめとする戦争映画など、多岐にわたる68本の劇映画を監督した。


自らの作家性よりも脚本の意図に忠実に撮影する職人気質で知られるが、仏心を描こうと常に心がけていたという。


そのほか、テレビドラマの演出なども担当、1980年からはフリーとなり、90年代以降は主に講演活動などに従事していた。


2004年3月には、故郷である江津市桜江町の「水の国/ミュージアム104"」内に、「松林宗恵映画記念館」がオープンした。


2009年8月15日午前7時10分、心不全のため死去。89歳没。