陸軍大臣 阿南惟幾陸軍大将 | 戦車兵のブログ

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8月15日、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を遺し陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将は自決した。


阿南 惟幾(あなみ これちか、明治20年(1887年)2月21日 - 昭和20年(1945年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。


1945年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。


太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自決した。


大分県竹田市玉来出身であった父の阿南尚は内務官吏として転勤を繰り返したため、幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った。


本籍は竹田市に置かれている。早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校2年生の時に、当時第11師団長であった乃木希典陸軍中将の助言もあって陸軍幼年学校を受験して合格した。


阿南は乃木を終生の模範として仰いでいる。


幼年学校を経て、陸軍士官学校(18期)、陸軍大学校(30期)を卒業。


陸大の入学試験には3度失敗しており、卒業の席次も60人中18番と目立つものではなかった。


1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。


阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。


侍従武官を辞した後は近衛歩兵第2連隊長を経て東京陸軍幼年学校長となった。


1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。


阿南は、幼年学校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いている。


陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことが評価され、8月に新設された陸軍省兵務局長に就任し、さらに翌1937年(昭和12年)には陸軍省人事局長に任ぜられた。


人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。


1939年(昭和14年)10月から1941年(昭和16年)4月には陸軍次官を務めた。


この間には日独伊三国同盟に反対していた米内内閣に対して陸軍が反発し、畑俊六陸軍大臣を辞職させ陸軍三長官が後任を推薦しないことで米内内閣を倒閣する事件が起きている。



太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦が自明なものとなっていた1945年4月、枢密院議長の鈴木貫太郎に大命降下し、阿南は鈴木内閣の陸相に就任した。


これについては小磯内閣の最末期、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して、三長官会議が小磯國昭首相に無断で杉山元陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任陸相とすることを決定したことに対し、予備役陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼摂を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。


鈴木内閣では、和平派の鈴木と、本土決戦を標榜する陸軍を代表する阿南は、閣議や戦争指導会議において対立することが多かったが、陸軍の倒閣運動を押さえ込むことで鈴木を支えてもいる。


終戦について激しい議論が展開された閣議の合間、阿南は閣僚の一人であり同じ陸軍出身で同期の安井藤治国務相に「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。


どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と語っている。


また終戦への基本方針が天皇の第一回目の聖断によって決まった8月9日の御前会議終了後に、鈴木首相に「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と激しく詰め寄る吉積正雄陸軍軍務局長に、「吉積、もうよい」と言って何度もたしなめている。


阿南は梅津美治郎参謀総長とともに戦争の継続と本土決戦を強硬に主張したが、昭和天皇の聖断によって最後には陸相として終戦の詔書に同意した。


終戦の詔書の作成においては陸軍の立場から「戦局日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」とするなどの字句修正を求めた。


終戦の詔勅に署名したのち阿南は鈴木首相のもとを訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。


鈴木は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去った。


鈴木は「阿南君は別れを告げに来たんだね」とつぶやいている。


また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と最も激しく対立した東郷茂徳外相に対しても、「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。


軍務局幕僚を中心とする強硬派は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画をねっていた。


これに賛同を求められた阿南は、梅津の賛同を条件としたが、14日朝に梅津から反対の意を伝えられた。


14日正午過ぎに首相官邸閣議室において義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けた。


8月14日午後には、陸軍省の道場で剣道範士斎村五郎と面会し、短時間剣道の稽古をしている。


8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で切腹(自刃)した。


介錯を拒み早朝に絶命している。「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もある。


遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていた。


辞世の句は、「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」とあり、これは1938年(昭和13年)の第109師団長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで会食した際に、その感激を詠ったものである。


阿南は昭和天皇からは「あなん」と呼ばれていた。阿南の葬儀に昭和天皇は勅使を派遣していない。



阿南の同意を得ぬまま8月14日深夜に始まった宮城事件は、15日のうちに失敗に終わった。


阿南は8月14日の三長官会議で既に罷免が決まっておりクーデターを積極的に支援することができなかったとの意見もある。


阿南が自刃したと聞いた東郷茂徳外相は、「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、鈴木貫太郎は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評した。


阿南と閣議において対立した米内光政海相も「我々は立派な男を失ってしまった」と語った。


日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めてであった。


その後も2007年に安倍内閣にて松岡利勝農水大臣(当時)が自殺するまで、62年間も現職閣僚の自殺はなかった。



戦時最後の陸相を務めた阿南の真意をめぐって諸説あり意見が分かれている。


当時書記官長であった迫水久常は、終戦を望む天皇の真意を汲み、暗黙裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと述べている。


この説では、降伏に反発する軍の暴発を阻止するため、自身は強硬な言動をとって継戦派を装っていたとする。


そうした阿南の表裏は、鈴木が一番よく承知していたと迫水は推測している。


阿南が当初から降伏を認めていれば、強硬派に辞職を強要され、軍部大臣現役武官制により新任の大臣を出さないことで鈴木内閣の総辞職が必至で、この時点での降伏は実現しなかったとみられる。


また阿南が本心から継戦派であったなら、自ら辞職して鈴木内閣を葬ることは簡単であったはずである。これは腹芸説と呼ばれている。

もう一つの説は、閣議における発言そのままに継続、本土決戦を望んでいたとする考えである。


「ポツダム宣言反対のための自刃」と評価される根拠となっている(そもそも日本本土への空襲攻撃の激化、原子爆弾投下、ソ連軍参戦という逼迫した状況の中で陸相が腹芸を打って陸軍幹部を煙に巻いているような余裕などあるはずがない、との分析)。


例えば、憲兵隊本部に国民総綱紀粛正のスローガンを掲げさせておきながら、その憲兵がスパイ工作によって摘発してきた和平派の急先鋒の吉田茂の釈放に尽力している。


一方で、臨終の際「米内(終戦を支持していた米内光政海軍大臣のこと)を斬れ。」と口走っていることなどから実際は最後まで継戦派であったのではないかと(クーデター計画(宮城事件)の真の首謀者だったのではないかという説さえ一部にある)その真意とするところをめぐり議論がある。


しかし米内への最後の発言については、自決直前の阿南は今生の別れにとかなり酒を飲んで気持ちが酩酊しており、単に阿南の米内への個人的感情によるものだったとする説が有力である。


米内と同じく和平派だった鈴木や東郷に対しては、阿南は前述のように自決前に礼儀正しく和やかな別れを告げに訪れている。


平生から阿南は米内の人柄を好まなかったようである。


ただこれは阿南の側からの一方的なもので、阿南の自決直後、米内は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。


阿南の部下であり、その自刃にも立ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、阿南が求めていたのはただ国体護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派の何れにも解釈できる態度を取っていた、との見解を示している。


年譜


明治33年(1900年)9月 - 広島陸軍地方幼年学校卒業。


明治38年(1905年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。


明治39年(1906年)6月 - 陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附。


明治41年(1908年)12月 - 陸軍歩兵中尉に昇進。


明治43年(1910年)11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監。


大正5年(1916年)11月 - 陸軍歩兵大尉に昇進。


大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。


大正8年(1919年) 4月 - 参謀本部附勤務。


12月 - 参謀本部員。


大正11年(1922年)2月 - 陸軍歩兵少佐に昇進。


大正12年(1923年)8月 - サガレン州派遣軍参謀。


大正14年(1925年)8月 - 陸軍歩兵中佐に昇進。


大正15年(1926年)4月 - 軍令部参謀。


昭和2年(1927年) 8月 - フランス出張。


12月 - 歩兵第45連隊附。


昭和3年(1928年)8月10日 - 留守歩兵第45連隊長。


昭和4年(1929年)8月1日 - 侍従武官。


昭和5年(1930年)8月1日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。


昭和8年(1933年)8月1日 - 近衛歩兵第2連隊長。


昭和9年(1934年)8月1日 - 東京陸軍幼年学校長。


昭和10年(1935年)3月15日 - 陸軍少将に昇進。


昭和11年(1936年)8月1日 - 陸軍省兵務局長。


昭和12年(1937年)3月1日 - 陸軍省人事局長。


昭和13年(1938年) 3月1日 - 陸軍中将に昇進。


11月9日 - 第109師団長。



昭和14年(1939年) 9月12日 - 参謀本部附。


10月14日 - 陸軍次官。


昭和16年(1941年)4月10日 - 第11軍司令官。


昭和17年(1942年)7月1日 - 第2方面軍司令官。


昭和18年(1943年)5月1日 - 陸軍大将に昇進。


昭和19年(1944年)12月26日 - 航空総監兼軍事参議官。


昭和20年(1945年)4月7日 - 陸軍大臣(~8月14日)。