第二次上海事変 | 戦車兵のブログ

戦車兵のブログ

元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。

1937年(昭和12年)8月13日第二次上海事変が勃発した。


この事件をよく考えてみると、支那の反日と日本対する挑発行為で日本に戦争をしかけるとともに無防備の在留邦人に対して中国が攻撃を仕掛けることも平気でするという今の日本にとって教訓・戦訓ともなってる。


こういうやり方で中国は戦争を仕掛け世界世論では平気で嘘を言うのである。


今一度学んでみる必要がある。



第二次上海事変は、1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。


1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。


上海戦とも呼ぶ。


盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の郎坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件(但し、当該事件は華北分離工作による日本の傀儡政権である冀東防共自治政府保安隊によって引き起こされた。)では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。


この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。


発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。

見解1


この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。


このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった(←第二次上海事変時においては、西安事件が起きた後であり、国共合作は事実上成立している)。


この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。


1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。


又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。


この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。


第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。


中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。


1934年(昭和9年)、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。


福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。

ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。


ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)10月には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年(1936年)4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した。

蒋介石の長男、蒋経国

見解2


前月7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本(軍)への抗日・排日・反日行為は続いた。


直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。

7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。


アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。


一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。


しかし、8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲した。


翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。

さらに中国軍は空襲を加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。


日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。

このように中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。


この背景には、共産軍解散を目論んでいた蒋介石が先の西安事件によって捕らえられ方針を変えざるを得なくなったことがあった。


蒋はソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作った(9月22日世に言う第二次国共合作)。

国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。


当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。

大山事件


1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が殺害された事件である。


中国側からは「虹橋空港事件」と呼ばれる。


日本側は、これを中国軍のしわざだと考え、この事件が第二次上海事変のきっかけの一つになった。


1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。


上海では1932年(昭和10年)ごろから中国軍と日本軍の関係はかなり険悪であった。


1935年11月9日には19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して蒋介石政権を打倒を図ろうと活動していた秘密結社によって中山水兵射殺事件が引き起こされ、1936年9月23日にも上海日本人水兵狙撃事件が引き起こされていた。


1937年7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致されたと在留邦人から報告されると日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始したが、これに対し中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなどした。


上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。


第一次上海事変後、停戦協定により中国軍は上海中心地への駐留が禁止され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃が勝利への唯一の道と考えている中国軍は、7月下旬から、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯には土嚢を積み、戦闘準備を着々と進めた。

このため8月に入ると、自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は第一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難し出し、その数は一日に二万人とも五万人ともいわれた。


日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了し、中国側も防備を撤収している。


後に、宮崎は買春行為として軍紀違反の発覚を恐れて逃亡しただけであったという真相が明らかになった。


早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣したが大山事件によって情勢が緊迫してゆくことになった。

1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が殺害された事件である。


中国側から「虹橋空港事件」と呼ばれる。


この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。


事件は、8月9日の午後6時半頃、大山中尉が斎藤與蔵一等水兵を運転手として、当時の虹橋空港の辺、上海共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で起きている。


日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表を報道した『上海朝日特電8月9日発』では次の様に書かれている。

陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。


現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。


右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。


なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。


帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。


なお同中尉は軍服であったことを付記する。


1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。

中国側の報道


『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。


8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。


飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。


衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。


ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。


これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。

張治中工作説


作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦は、大山事件は張治中による工作とみている。


8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。


張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。


さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。


日本側が先に発砲したように見せかける工作である。


なお同書によれば、張治中はソ連のスパイでもあったという。

事件後の動き


この事件によって大山中尉、斎藤水兵が死亡した。この事件の報告を受け、兪上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。


日本側は日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。


なお、事件発生直後、日本人武官が現場に赴き、保安隊中国人の死体がないことを確認しているため、その死体は後で運んだことや事件現場も飛行場から300メートルの地点であることから飛行場に向う意志のなかったことも明らかであった。


8月10日に日中共同の公式調査が行われた。


日本上海領事および駐在武官・上海特別陸戦隊参謀・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。


中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は出来なかった。

その結果次のことが判明した。


大山、斉藤の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、大山は全身に30発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、その他の弾痕を含む外傷は中国側が苛虐的に加えたものであること。


死亡した中国保安隊員の死亡は機銃弾によるもので背中から2発を打ち込まれて即死していたこと、及び当時大山は拳銃を携帯せず、斉藤も拳銃を肩に掛けながら陸戦隊自動車を運転していたことから中国人同士撃ちであることがはっきりした。


これらのことから中国側が主張した日本側から先に発砲した事実はなく、中国側が射撃を行い、両名の死体を侮辱する行為をおこなったことが明らかであること。


なお中国側は使用が禁止されていたダムダム弾を使用し、この死体検死についても中国側は承認した。

この間、中国側の主張は二転三転したが、日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。


また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。


また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。


同日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。

当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。


この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。


英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。


同日、閣議で海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定したが、これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。


またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。

8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。


8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。


日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。


対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。


このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。


しかし上海市長は中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと断言した。


一方日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。


午後5時50分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。


午後8時40分、「動員が下されても到着まで2週間かかる。


なるべく戦闘正面を拡大しないように」という電報が東京から返ってきた。

第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。


日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。


中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日であった。

8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始している。


日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。


列強各国の調停の申し出を期待したためである。


午後4時54分には、八字橋方面の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。


午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された。


この日には英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。


また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。


1.中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。


2.日本軍は国際租界から撤退する。


3.中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令長官)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍はすでに開戦を意図していると察した。


そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。


しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。


13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。


当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた。


同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。


8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲が開始された。


この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル(en)前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。


民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。


しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。

又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると誤った内容の報道をしたこともあった一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。


九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された。


同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。


しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。


重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。


日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。


第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。


日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。


第87師、第88師の2個師であった中国軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。


日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった。


8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。


仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。


しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。


このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。


日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。


8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で中ソ不可侵条約が締結された。


ソ連は直ちに飛行機四、五百機と操縦士および教官を送り込んだ。


8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。


蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。


8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。


支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた。


9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐する。


同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。


しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し、橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。


中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。


依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。このため、8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された。

石原莞爾参謀本部第1部長一人が不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。


9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原部長の辞職が決定した。


10月上旬、大場鎮の5キロ手前の呉淞クリークまで進んだが、中国軍の激しい抵抗に、呉淞クリークを越えて1キロ進むのに10日もかかる有様であった。


10月18日には5個師団と1支隊の戦死傷者は22082名に達した。


10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。


10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。


10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場(Dachang)鎮を攻略し、翌27日、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。


大場鎮を落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第3師団と第9師団は強力なトーチカのため、進めなかった。


11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した。

上陸しても、中国軍の攻撃はほとんどなかった。


翌6日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上海の街に上げられると、蘇州河で戦っている中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。


11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった。


日本側は3ヶ月で戦死者10076名、戦傷者31866名、合わせて41942名の死傷者を出し、日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄残な消耗戦であった。

日中戦争において中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。


中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された。


中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている。


中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた。


上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。


10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。


また、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。


当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。


ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京からの撤退を主張したが、蒋介石が南京での防衛戦にこだわったため、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。


1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。


ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。


またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。

上海攻略に当たる日本軍にとって、最新鋭の戦闘機を揃えた中国の空軍戦力は侮りがたいものであった。戦力を無力化すべく、当時木更津・鹿屋航空隊に配備されていた最新鋭の96式陸上攻撃機38機の投入を決定、両航空隊をして第1連合航空隊を結成した。


8月8日に九州・鹿屋航空隊所属の陸攻が本拠地を離れ、台湾に進出。


これに先んじて中国空軍も南昌に集中する9個大隊の戦闘配置命令を下し、5日に空軍戦力を各地に分散させた。


しかし、台風によって両者は睨み合いのまま足取りを阻まれていた。


13日、第三艦隊の長谷川長官は第1連合航空隊および大連港の加賀、鳳翔、龍驤に出撃命令を下したが、三隻ともに台風のため身動きが取れない状況となっていた。


一方、中国空軍司令周至柔は同日に「空軍作戦第一号令」を発動。


これは上海に上陸した日本軍、および長江に展開する日本艦艇を爆装した空軍戦力をして壊滅させる計画であった。

14日早朝、続く「空軍作戦第二号令」を受けた第3大隊の許思恩率いる五機のヴォート V92「コルセア」が筧橋を発進、続いて8時40分、大隊長張廷孟および副大隊長孫桐崗少校率いる空軍第2大隊所属のアメリカノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(en)21機が安徽省の広徳基地を飛び立ち、上海へと向かった。



10時30分、襲款澄率いる第11中隊6機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦装甲巡洋艦「出雲」上空に飛来し、うち3機が11時22分、250キロ爆弾6発を投下。


しかし雲によって照準が定まらず、5発は川に落ちて巨大な水柱を起こし、残り1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。


出雲ともう1隻の軽巡洋艦「川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。


同日午後4時、南からアメリカ製のカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。


10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。


やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。


直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。


さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。


爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷。



およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。


犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。


遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。


中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいたイギリス海軍重巡洋艦「カンバーランド(Cumberland)」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦「オーガスタ(Augusta)」の2隻にも向けられた。


爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。


中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。


日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。


しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。


この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている。


この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行った。


翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行った。


一方同日、日本海軍は台湾の航空基地より九六式陸上攻撃機6機を飛ばし、杭州や広徳へ爆撃に向かわせた。


しかし周家口より飛び立った高志航上校率いる第4大隊がこれを迎撃。


空中戦における中国空軍初の戦果となった。


この事から、8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。


1955年に三軍共通の軍隊記念日「軍人節」が制定されたが、現在でも台湾空軍ではこの日に盛大なイベントを催している。


日本人居留民の保護


日本海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が殺害され、中国軍は3万の軍で上海の租界を包囲し、対する日本は陸戦隊わずか4000人であった。


日本領事館は在留日本人を小学校や歌舞伎座、旅館、東西本願寺に避難させた。


8月13日午前10時30分、商務印書館付近の支那保安隊が日本の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせ、日本軍はできるだけ交戦を避けようとしたが、午後5時54分、八字橋から支那軍が急襲した。


これは爆破を伴う本格的なもので、陸戦隊は遂に反撃を開始した。


上海ではドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った中国軍に対して寡兵の陸戦隊が奮戦した。


八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退した。


日本人居留民はどんどん引き揚げたが、日本人婦女子を含む230名が強姦・虐殺された通州事件が再現されるかもしれないとの恐れから、残っているひとりひとりの邦人に警備がつけられ、汽船やブロードウエイマンションに避難された。


それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。

国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事協力を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。


しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる。


1927年の南京事件では、これと似たように外国総領事館を襲い、各国の居留民7名を殺害し、それにより中国は米英軍に居留民保護のために砲撃された。


居留民保護のために反撃する事は日本だけでなく、アメリカやイギリスも行っている。


上海事件での戦訓は今の日本でも決して過去の話ではない。


この事件を通して中国人の本質が今も変わらないことが解る。


爆撃機誤爆したことは日本軍の仕業だと宣伝するし、日本に挑発したりしていても中国が被害者だと言い張る。


これって今も同じやり方を中国がしている。


大山事件に至っては謀略で日本人将校を殺害しておいて日本人の方から撃ったと捏造までしている。


中国に進出している日本企業を護る「上海陸戦隊」のようなものは存在しないことは知っておくべきだし、中国人の反日デモは正しく日本人に対する惨殺事件の前触れのようなものである。