永田軍務局長斬殺事件 | 戦車兵のブログ

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昭和10年8月12日陸軍省軍務局長室で永田軍務局長が暗殺された、永田軍務局長斬殺事件、犯人の相沢三郎中佐から「相沢事件」とも呼ばれる日本の軍事史において大きな岐路ともなった事件である。


相沢事件(あいざわじけん)は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派の永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。


統制派による皇道派追放への反発(磯部浅一と村中孝次の停職に憤激)が動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。

1931年に三月事件、満州事変、十月事件が起こり、日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が革新派の青年将校や皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭により、反対派を一掃しようとした。


林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論した。



皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難した。

1934年(昭和9年)12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した相沢は、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談したが、大岸が反対し断念した。



相沢中佐の行動を記した資料「相澤中佐の片影」より抜粋


1934年12月30日、


相沢三郎中佐は末松太平中尉、大岸頼好大尉と共に仙台に行った。


31日の年末の夜、末松中尉が寝た後に相沢は大岸と二人で話し合った。


二人ともきちんと向き合って正座していた。


後輩に対してもいつも丁寧な相沢だが、大岸にはかねてから人生開眼の師として尊敬していたため、大岸先生と呼んで“ハイ”、“ハイ”と聞いていた。


この時、相沢は「今度の上京を機会に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と相談した。


相沢は十一月事件の村中孝次大尉、磯部浅一大尉らの拘留の背後には永田がいると判断していた。


「辻政信もその謀略の手先に過ぎない。そして問題は村中ら三人だけではなく、いずれは全国の同志にかかわることだ。今永田を斬っておかねば将来の禍害ははかり知れないものがある」
しかし、大岸は反対した。


相沢は「千古賊名甘受」と紙に書いて大岸に差し出した。


大岸はその紙を向きを変えて相沢に返し、相沢への反対意見を言いはじめた。


相沢は握りこぶしを両ひざの上において“ハイ”、“ハイ”と、目には涙を浮かべて大岸の反対意見を聞いていた。


1935年7月16日、
相沢三郎は“真崎教育総監更迭”を自宅の夕食の時に中国新聞の夕刊で知った。

相沢は食事がのどを通らず、翌17日休暇を取って福山を発ち、和歌山に向かった。

和歌山にいる大岸頼好大尉の意見を聞くためだった。 しかし、大岸は「静観」だった。

(「相澤中佐の片影」)

1935年(昭和10年)6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿は永田を暗殺しようとした。


義憤を感じたとされる相沢は、総監更迭の事情を確かめようと、1935年7月18日に上京。


翌19日陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。


相沢は「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する文書を読み、教育総監更迭の真相を知って統帥権干犯を確信した。


また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した。




「相澤中佐の片影」より抜粋

東京に着き、翌19日を迎えると“お前、あわてるな、いたらぬことをするでない・・”と厳しい戒めの言葉が聞かれる気がした。 

“斬るのはやめよう” それよりも永田に会って真心こめて自分の考えを述べてみよう。

それがものの道理だと思い直した。

しかし、永田に会うことはそう簡単にできないことを相沢は知っていた。


これまでも青年将校たちが何人か面会を申し込んでいるが皆断られていることを相沢は知っていた。


その頃の陸軍大臣秘書官は有末精三少佐だった。有末とは青森の連隊で一緒に大隊長をしていた仲であった。


相沢は靖国神社に参拝した後、有末のいる陸軍省へ向かった。


有末は相沢の申し出を聞くと、今あなたが永田少将に会うことは穏当ではあるまい」としきりに止めた。


しかし相沢はひるまなかった。


ついに有末は相沢の熱意に負けた。




その後、相沢と永田の会談は午後3時から5時まで続けられたというから相当話し合った。


「林大臣の近頃のおやりになっていることは間違いが多い。閣下は大臣にとっての最高の補佐官であり、責任の中心であられるのだから、責任を感じてお辞めになるのがよろしいでしょう」


相沢は永田に再三にわたって軍務局長を辞職するようにすすめた。


「君の注意は有難いが、自分は誠心誠意大臣を補佐しているつもりだ。大臣が聴かれればよし、聴かれなければ何とも仕方がない」


会談の終わり頃には幕僚が二、三度永田に車の準備ができたと呼びに来たが、それを無視して永田は腰を上げなかった。


ついに永田は腰を上げ、「初めて会って話しただけでは君の考えもよくわからないから、あとは手紙でなり、今度東京に出て来た時なりに君の考えをよく聞こう」と言った。


相沢は永田の印象を温和な親しみのある人と思った反面、永田は所詮「尊王絶対」のわからぬ責任を徹底的に回避する人と思った。


もう話す気も起らなかったし手紙を書く気にもなれなかった。


相沢の心は絶望に近かった。相沢はさびしい気持ちで東京を去って任地の福山に戻った。


(「相澤中佐の片影」)

台湾転任を前に、8月11日に上京。


途中、伊勢神宮と明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。


8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。


決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。


山岡は予想外の表情をしたが、永田を刺突した際に刀身を持ったため出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた大尉に医務室へ案内させた。


途中、永田局長の一の子分といわれた新聞班長の根本博大佐が駆け寄ってきて、黙って固い握手を交わした。


また、調査部長の山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。


こうした陸軍省内の様子を見て「ありがたい、維新ができた」と内心感激した。




事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。


林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。


第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年(昭和11年)1月28日第1回公判が開始された。


裁判長は判士、陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎、検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢聡明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。


公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが、事件の焦点となった。


事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。


林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。


第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年(昭和11年)1月28日第1回公判が開始された。


裁判長は判士、陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎、検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢聡明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。


公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが、事件の焦点となった。


軍法会議は2月12日の第6回公判において、陸軍次官の橋本虎之助中将を、2月17日には陸軍大臣の林銑十郎大将を、2月25日には前教育総監の真崎甚三郎大将を証人として喚問し、軍機保持上公開を禁止した。


しかし、三証人とも、職務として関与したものであるから勅許をまたずしては証言できない、と肝心の点については証言を拒否した。


鵜沢、満井両弁護人は勅許を仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに、斎藤実内府、池田成彬、木戸幸一、井上三郎、唐沢俊樹警保局長、下園佐吉(牧野前内府秘書)、太田亥十二を証人喚問することを申請した。


軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁に二・二六事件が勃発した。


二・二六事件により一時中断されたが、4月22日に第11回公判を再開した。


裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。


また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。


裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。


5月1日の第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請はことごとく却下された。


同年5月7日死刑の判決が言い渡された。翌8日に上告したが、6月30日上告棄却が言い渡され、死刑判決が確定した。


1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。


同年7月3日午前5時、東京衛戊刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。


鷺宮の相沢家では供養が行われた。


夜になって荒木大将が弔問した。


7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られたという。


なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が在室していた。


新見大佐は怪文書について報告しており、軍務局長の机の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。


相沢の襲撃に気づいた新見大佐は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。


この事情について山田大佐は事件後、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った(この山田の不可解な行動についてNHKが「歴史への招待」という番組の中で取り上げ、疾病による視野狭窄のために周りがほとんど見えない病状にあったからでは、という説を紹介している)。


このため、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。


永田が殺されたとき大川周明は「小磯がバカだからこんなことになった。


あの書類さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという。


「あの書類」とは、永田が立案作成した三月事件の計画書。事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。


社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。


だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。


どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを述べている。


相澤三郎中佐について。


相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年(明治22年)9月6日 - 1936年(昭和11年)7月3日)


本籍は宮城県仙台市。旧仙台藩藩士で裁判所書記・公証人となる相沢兵之助とまき子の長男として福島県白河町(現白河市)に生まれた三郎は、一関中学(現 岩手県立一関第一高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、明治43年(1910年)5月28日に卒業する。


卒業期は第22期で、同期には第2航空軍司令官の鈴木率道中将や、第3軍司令官の村上啓作中将のほか、原田熊吉中将・寺倉正三中将・北野憲造中将等各軍司令官や企画院総裁となる鈴木貞一中将がいる。


仙台藩士の相沢の父は明治維新の際、東北諸藩が朝敵の汚名を受けたことを深く慙愧慨嘆し、祖先の汚名をそそぐために、一意専心ご奉公を心がけ、常に一死以って君国に報じる覚悟がなければならないと、三郎を戒めた。


剣道四段・銃剣道の達人であり、陸軍戸山学校の剣術教官を務めた。


相沢事件において永田軍務局長に軍刀で切りかかった際に、斬撃だけでは致命傷を与えることができず、とっさに左手で刀身を持ち銃剣刺突の要領で永田を殺害した。


左手の傷はこの際にできた。


少尉時代には仙台の輪王寺に下宿して、無外禅師の教えを受け、三年間禅生活を送った。


質素にして、常に綿服をまとい、一見古武士の風格があり、上官には恭敬をもって仕え、部下には慈愛をもって臨み、至誠至忠、その言行は模範的であった。


他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関すること以外は、人と論争したことがなかった。


然諾を重んじ、偽りをいったり駆け引きをしたりはしなかった。


少年時代より毎朝皇居の遥拝を欠かさず、獄中でも変わらなかった。


尊皇絶対の信念に触れるときには、誰であっても屈せず、毅然として譲らなかった。


また他人の言説に惑わされたり、付和雷同するようなことは少しもなかった。


十月事件や五・一五事件の関係者に好意を寄せていたので、親友らが忠告すると、「自分は父の訓えを必ず果たさなければならない。


そのためには他人に利用されたり、または他人に頼って事をおこすようなことはない。


しかし自ら信ずれば、必ず単身であっても実行する決心である」と明言したという。


死刑執行の模様が塚本刑務所長の「遺稿」に記されている。


「昭和12年7月3日午前4時48分、相沢を出房させたのだが、房前20余米突の廊下を、言渡所に控えていた私を見かけ、付添の看守長の指図も余所に、にこにこ微笑を含んで丁寧に謝辞を述べ、傍の検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ち着き払った態度であった。(略)。相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶する。規則だからと言えば『私に限りその必要はありません』『それでは射手が困りますから』といへば『射手が困る、それではやりましょう』と従順に目隠しをなし、『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』といって悠々刑架に就き、平然として少量の水を呑み、執行を受けたのである」。


死刑執行に際し、石原莞爾に辞世の句を託した。


「大君に仕えまもらん一條(じょう)のあつまり徹(とお)せ阿(あ)まつたみくさ」


「かぎりなきめぐみの庭に使へしてただかえりゆく神の御側に」


 いずれも死刑判決を受けた後の1936(昭和11)年5月30日、刑務所内で書いた。


縦1メートルを超す大ぶりの書で、天皇に仕える思いを訴える一方、死と向かい合う覚悟を示している。
2点とも石原莞爾を「学兄」と呼んでいることから、両者の親密さがうかがわれる。


石原莞爾は皇道派側の相沢三郎の弁護に立つ覚悟を持っていたとされる一方、(相沢事件の半年後に起こった)二・二六事件の鎮圧に回り、皇道派の青年将校グループから命を狙われてもいた。


皇道派、統制派に二分する見方で論じることはできず、石原は派閥の次元を超えた存在だ。


その証拠がこの書ではないだろうか。冷静な計算と、果敢に行動する情熱を併せ持つ石原の一面を物語っているように思える。