軍神・西住小次郎戦車長 | 戦車兵のブログ

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 5月17日は軍神として称えられた陸軍大尉西住小次郎戦車長が、昭和13年5月17日徐州会戦南平鎮西北方面の戦闘で戦死した日である。


アニメ「ガールズ&パンツァー」の主役である西住みほは、ガルパンの世界ではこの方の一族または子孫が「西住流」戦車道を興した、というような設定があるかもしれませんが、同じ「西住」姓を名乗って実家も同じ熊本なのであれば、子孫という設定なのかも知れません。


ガルパン人気で急に西住戦車長が注目されたが、戦車乗りからは軍神という名ほどの評価はそう高くはない。

西住 小次郎大尉は1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。


父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。


1920年(大正9年)、甲佐尋常小学校に入学。当初胃の病気で体が弱く、1・2年ともに一か月程欠席していたが、成績は優秀であり[3]、1・2年生では二番、3年から6年生は首席だったという。


1926年(大正15年)4月、旧制御船中学校(現:熊本県立御船高等学校)に入学。


成績は1年で18番、2年で5番、3年が3番、4年の時は陸軍士官学校入学を優先したため7番だった。


また、在学中陸軍幼年学校への入学も希望していたが、視力が弱いため不合格となった。


小学校の頃の西住は活発な印象だったが、中学の頃は生真面目で寡黙な言わば文学少年といった印象であり、当たり前のことを当たり前に淡々と取り組むタイプ、クラスメイトの中ではどちらかと言えば記憶に残らないような存在だった。

陸士では第1中隊第3区隊(区隊長・岩国泰彦中尉)の配属となる。


在学中、中学以来一蓮托生であった無二の親友が病気により失意のうちに退学、さらにルームメイトと実の父を相次いで失うという衝撃的な出来事が相次ぎ、その後の彼の人生に大きな影響を与えた。


1934年(昭和9年)6月の卒業(第46期、兵科:歩兵)後、見習士官として宇都宮歩兵第59連隊附。

同年12月には、静岡歩兵第34連隊の陸軍歩兵少尉として満州事変に従軍。


これにおいて飛行機とともに戦車の重要性を感じた西住は、内地帰還後、自ら戦車兵への転科を要望した。


1936年(昭和11年)1月から習志野戦車第2連隊練習部で戦車兵としての教育を受けた後、同年8月から久留米戦車第1連隊附に転任して陸軍歩兵中尉へ昇進。

映画『西住戦車長伝』


翌年の1937年(昭和12年)9月3日、第二次上海事変において戦車第5大隊・第2中隊(中隊長・高橋清伍大尉)配下の戦車小隊長として上海に上陸、急遽天谷支隊に配属された。


以降、歩兵支援という地味な役回りではあったが、大場鎮の戦い、南翔攻城戦と激戦を戦い抜き、うち5回も重傷を負いながらも、一回も前線を退くことなく、実に計34回の戦闘に参加して武勲を挙げた。


また、高橋大尉が負傷した際には、中隊長代理として第2中隊の指揮を務めた。

映画『西住戦車長伝』

徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近に於いて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見した。


西住は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車し単身斥候を行った。


そして指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃された。


銃弾は西住の右太腿と懐中時計を貫通し左大腿部の動脈を切断した。

すぐに部下である城秀雄伍長と砲手であり当番兵の高松高雄上等兵が戦車から飛び出して西住を担ぎ込み、また別の戦車2両が前面に出てクリークと西住の間を遮り盾となった。


西住は出血多量のために意識朦朧となりながらも、高松上等兵に高橋中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じた。部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住は、衛生隊軍医の服部(階級不明)から応急措置を受け止血したが、すでに手遅れであった。


自らの最期を悟った西住は、高松ら部下と高橋中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げ、午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取った。


享年24。死後、陸軍歩兵大尉に特進した。

細見惟雄大佐


死後、西住の上官だった細見惟雄大佐は、11月、千葉陸軍戦車学校で行われた講演会で西住について触れた。間もなくマスコミは西住のことを一斉に書き立て、西住を軍神と称賛した。


こうした動きに軍部も黙ってはいられず、翌年3月11日、西住は「申し分ない典型的武人」「忠烈鬼神を泣かしむる鉄牛隊長」として陸軍報道部によって顕彰され、功四級金鵄勲章及び勲五等旭日章を授与された。


戦前日本において、日露戦争時の広瀬武夫中佐・橘周太中佐などが既に「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていたものの、軍部によって公式に「軍神」として指定されたのは西住が最初であった。


以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。


西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。


1938年2月9日、南京にて戦車第5大隊が上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王の巡閲を受けた際、弾痕の凄まじい西住の戦車を見て驚いた鳩彦王は、「この戦車は、まだ使えるか」と尋ねた。


乗員の位置に直立した西住は恐懼しつつ説明した。


2日後母宛に送った手紙で『私自身はもちろん、家門の光栄この上ないことと存じます』と述べている。


その他にも、西住をテーマにした小説や戦時歌謡(軍歌)、子供向けの伝記が数多く作られている。

特に、軍部の依頼によって書かれた菊池寛による小説『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載されると好評を博し、1940年(昭和15年)には松竹により映画化。


監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演している。


また主題歌の『西住戦車隊長の歌』は北原白秋が作詞を、飯田信夫が作曲をそれぞれ担当した。

詩吟や口上が得意で、宴席の場でよく披露しており日頃も吉田松陰の歌をよく吟じていた。


また自分でもしばしば詩を作っていた。


宮部鼎蔵、橋本左内、吉田松陰、乃木希典を尊敬していた。


特に松陰に関しては陸士時代、暇さえあれば松陰伝を紐解き、従弟を連れて松陰神社に参拝するほどだったという。


この辺は私ととても共通するところがあってとても親近感を覚える、真面目で実直な戦車乗りだったことがよく解る。


ただ戦車兵としては戦場を得て、武勲ある機甲将校であったが実は戦車長としては至極当たり前のことをやっていたのであって、特に軍神と呼ばれるのには少々疑問がある。


下車偵察中の戦死は戦車将校としては珍しくない、しかし私の持論では下車偵察こそ戦車兵、戦車長、戦車小隊長は積極的にやらねばならないことであり、下車偵察をしない戦車乗りなんぞ戦車兵にあらずと思っている。


私の師匠の戦車長は下車偵察を重ねバトラーによる演習でたった1輌で敵戦車8輌を撃破している。

最近、シリアで戦車が撃破される映像がネットに流れて「戦車弱し」なんて思っている人が多いらしいが、あのシリア軍戦車に乗っているシリアの戦車小隊長は常に先頭を走り、指揮官陣頭で指揮を執っている。


一日に数度撃破されても別な戦車に乗り込み戦っている、それこそ戦車兵であり万国共通の戦車兵気質なのである。


戦車は撃破されたら終わりなんて思想はない、戦車が擱座しても乗員が生存していたら下車戦闘をするのである。


白兵戦だって辞さない、それは古今東西の戦車兵全てに言える。


ドイツ軍だってソ連軍だって占守島で戦った戦車十一聯隊の戦車兵だって白兵戦をしてまで戦ったのだから。


戦車と命運を共にするという思想はない、生きてる限り戦うのである。


西住大尉が国策で『軍神』となったのか、それとも軍神にふさわしい人物であったかは私には解らない。

ただ、24歳という短い生涯を生真面目に生き、戦車兵らしく下車偵察中に戦死した戦車乗りの大先輩が、再び注目されていることは悪くないね。


西住大尉は生前の1937年(昭和12年)11月9日、地元の熊本日日新聞より取材を受けたことがある。


去る10月31日の馬道湾付近の戦闘で重症を負っていた西住は、顔半分を包帯で覆い松葉杖を突いて取材に応じ、「あの戦争は実に壮烈でした。敵兵は勇敢に手榴弾を投げ抵抗しました。私も指揮中やられたのであるが、大したことはありません。」と述べた。


正しく戦車乗りらしい姿だね、アニメのように西住流なんて流派の機甲戦闘戦術を残すくらい戦死せずに生きて残して欲しかった。


軍神西住戦車長の残したものは戦車兵の精神だったのかも知れない。