豪国防相に日本海軍艦艇「伊吹」の写真贈呈 | 戦車兵のブログ

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巡洋戦艦「伊吹」この軍艦のことは正直知らなかった。
このニュースを見て知った。
以下産経ニュースより転載


 小野寺五典防衛相は27日夜(日本時間同)、オーストラリア西部パースでのジョンストン国防相との夕食会で、第1次世界大戦中にオーストラリア軍などの輸送船団の護衛に当たった旧日本海軍艦艇「伊吹」の写真を贈呈した。

 防衛省によると、護衛は当時日本と同盟関係にあった英国からの要請によるもので、現在の国際法の観点では集団的自衛権の行使に当たるとみられる。

 小野寺氏は夕食会に先立ち、記者団に「伊吹が果たした役割は、日豪関係をさらに緊密にする上で大きい」と語った。(パース 共同)


巡洋戦艦伊吹について調べて見た。
以下ウィキペディアより転載

伊吹(いぶき)は、日本海軍の巡洋戦艦、鞍馬型巡洋戦艦の二番艦。伊吹型装甲巡洋艦の一番艦として扱われることもある。

1907年に呉海軍工廠で起工、進水。タービン機関の試験艦としての性格を兼ね備えていたため設計に時間を要し起工は遅れたが、短期間で進水にこぎ着けており、竣工も鞍馬より先となっている。当初、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別されたが、1912年に巡洋戦艦に変更された。

ラーマ6世の戴冠記念観艦式に参加するため、1911年にタイを訪問している。

第一次世界大戦では、インド洋まで進出して通商保護に従事した。その後シベリア出兵の支援に用いられたが、ワシントン海軍軍縮条約により廃棄が決定し、1923年から翌年にかけて解体され、主砲は、津軽要塞・豊予要塞に転用された。

1925年に通商保護をした縁で伊吹の縮小模型が日本政府からニュージーランド政府に寄贈された。この模型は現在ニュージーランド国立博物館テパパに収蔵されている。


日露戦争後に建造された軍艦だが、艦長には錚々たる顔ぶれであった。

秋山真之 大佐:1910年12月1日 - 1911年3月11日
「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と東郷平八郎元帥に作戦立案能力を高く評価された、日露戦争時の聨合艦隊先任参謀として活躍した後の海軍中将、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公の一人。

伏見宮博恭王 大佐:1912年3月1日 - 12月1日
日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。
艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった後の軍令部総長、元帥海軍大将。


加藤寛治 大佐:1914年5月6日 - 1915年2月1日
海軍兵学校18期首席卒業。日露戦争時の明治37年(1904年)3月、戦艦「三笠」砲術長として日露戦争に参加し、それ迄の各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した。
戦争後半の明治38年(1905年)2月に海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。