建国記念日に思う | 戦車兵のブログ

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今日は「建国記念の日」です。
「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつての祝祭日のひとつ、紀元節であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇即位の日として、1872年(明治5年)に制定された。

この建国記念日にかつて自決した若者がいた江藤小三郎烈士である。

1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日、国会議事堂前 (憲政記念館脇、井伊掃部頭邸跡の碑南) で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すとしてガソリンをかぶって焼身自決した。

江藤小三郎烈士は陸上自衛隊少年工科学校出身の自衛隊生徒7期生であった。

1945年(昭和20年)、明治維新の功臣・江藤新平の曾孫として神奈川県横浜市金沢区六浦に生まれる。父は江藤新平の孫で衆議院議員の江藤夏雄。祖父は江藤新平の二男の江藤新作。祖父は、衆議院議員・犬養毅の側近だった。

1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日、国会議事堂前 (憲政記念館脇、井伊掃部頭邸跡の碑南) で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すとしてガソリンをかぶって焼身自決する。行年23歳。その行為は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼし、翌年の三島由紀夫の自決の決意に繋がったと云われる。


江藤小三郎烈士の遺した覚醒書と時世の句を紹介する。

「覚醒書」

混沌たる世界、暗雲立籠む皇国。自然科学におかされ地獄道に落ちし民族。

これを救う道、一事に極む。これ大自然に沿いし無私の心なり。無私の心、真我に通ず。真我集へば破るる事なし。国の大事、すべて無私より始まる。

ここに気付き行えばあとは康し。

一皇万民、天皇の許に真我が集う時、皇国毅然として興る。皇子皇民、一丸となり熱鉄玉を呑む勢いにて行えば世界万民を救う道をなすこと難くなし。我、神命により不生不滅の生を得む。ここに肉体を放棄し永遠の生命を得む。

我「建国の日」に魂魄となりて、民族の危機にあたるものなり。

昭和四十四年二月十一日

辞世の句

「あらあらし 空にこみとり大楠の 大御心を誰ぞ知るらん」

「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ 大和魂」


江藤小三郎烈士が自決した時代とは学生運動盛んな時代であった。


 昭和四十四年は学生運動が燃え上がり、二十八の国立大学一期校の入学試験が行われるが東大、東京教育大の四学部は入試を取りやめている。


作家の三島由紀夫は、江藤小三郎の自決について次のように述べている。

二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つてゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。


                                        「若きサムラヒのために」より

かつて2月11日建国記念日自決した青年がいたことを知って欲しい。