「日本で死にたい」か・・、ちょっとこの言葉小野田氏の言葉だとぐっと来ますね。
ルバング島で捜索隊が何度出て来い日本へ帰ろうと呼びかけたのに決して帰ろうとしなかった小野田少尉。
命令解除がなくして故国の土は踏めないと遊撃戦を続けていた。
その小野田氏が最後は日本で死にたいと願った。
以下産経ニュースより転載
「日本で死にたい」。16日死去した小野田寛郎さんは2012年2月、経営していたブラジルの牧場で共同通信の取材にそう話していた。
フィリピン・ルバング島から帰国後、親族を頼って1975年にブラジルに移住。晩年は東京都内で暮らしていたが、中西部カンポグランデ郊外に設立した「小野田牧場」に毎年通っていた。
小野田さんは「牧場が軌道に乗るまで10年かかったが、ルバング島での苦労を思えば全く苦ではなかった」と語り、「密林暮らしが長かったので暑い方が好き」と夏場にブラジルに通ってきた理由を話した。
一時は体調が悪化し、12年以降はブラジルに来ていなかった。取材では「人に迷惑を掛けず、家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい」と語っていた。(共同)
私の手元に数冊の小野田氏の著作がある。
なんの支援もなく自活生存しつつ遊撃戦を行う訓練は自衛隊でもレンジャーでやるのだが、戦中に予備士官学校から中野学校で諜報と遊撃戦を学んだだけでよくぞここまでと驚嘆する。
本職の軍人でもやらないくらい過酷な状況下で30年間だからね・・・、凄いとしか言えない。
帰国後も大変の苦労をされて牧場をやられていたという。
戦争体験者がまた一人消えて歴史となってしまったね。