松平定敬(下)    | 戦車兵のブログ

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戦車兵のブログ 「松平定敬(下)」

 東大教授・山内昌之教授の「幕末から学ぶ現在」。

日露戦争の第8師団長にして、桑名雷神隊の隊長、立見尚文陸軍大将の話も出てきたぞ!
以下産経ニュースより転載



敗者復活戦の美学

 伊勢国(三重県)桑名藩主・松平定敬(さだあき)は、テロの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する京の都で所司代を務めた。兄の会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたのと同じく、天皇の座所と市街地を守る治安維持のためである。

 鳥羽伏見の戦いで敗れても、東国大名の兄、容保であれば、京都を引き揚げて会津という国元に下がればよい。しかし京に近い桑名となれば、そうもいかない。


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柏崎に移り抵抗覚悟


 徳川慶喜(よしのぶ)の姦計(かんけい)にたばかられ無理やりに大坂城を捨て江戸表(えどおもて)に連れていかれた定敬は、この“敵前逃亡”を恥とした。戦闘意欲は衰えなくても、徹底抗戦を貫く力は桑名藩の留守方には残っておらず、定敬の帰国も困難であった。

 事実、新政府軍の来襲を恐れた桑名の国元は、先代当主の遺児・万之助(後の定教(さだのり))を跡目に立て恭順することを決める。そこで定敬は、桑名藩の分領である越後国(新潟県)柏崎に移って抵抗する覚悟を固めた。

 柏崎には、藩中興の祖たる松平定信が白河藩主だった時分から陣屋が置かれていた。桑名本領の石高は5万石なのに、柏崎領は6万石を誇っていた。しかも、米どころ越後の分領の実高は7万石以上だったという。そこで100名の藩士たちは定敬に従って、ロシア船コリヤ号に乗り柏崎を目指したのである。


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横浜を出帆した船には、会津藩士100名、長岡藩士150名も乗っており、北越戦線でやがて活躍する長岡藩のガットリング機関砲2門はじめ、大量の武器弾薬を満載していたらしい。

 この時、ひとまず江戸に残留した藩士のなかには、やがて雷神隊を指揮して新政府軍をさんざんに打ち破る立見(たつみ)鑑三郎(尚文(なおふみ))もいた。

 24歳の立見が率いた75人の雷神隊はじめ、致人(ちじん)隊や神風隊など350人ほどの桑名勢は、佐川官兵衛の会津隊、旧幕府歩兵差図役頭取だった古屋佐久左衛門の衝鋒(しょうほう)隊と並んで奥羽越で精強をうたわれた兵力にほかならない。北越戦争では桑名勢の活躍によって「官賊」はしばしば潰走を余儀なくされた。主人定敬の面目躍如というべきであろう。

 定敬は北越と会津の2つの戦線で実兄、容保と一緒に新政府軍と戦ってきたが、ついに別れの時がきた。戦況思わしくなく、容保は自分を「阿兄(あけい)」(兄を親しんで呼ぶ敬称)と呼び慕ってきた実弟を会津籠城に付き合わせ桑名藩の社稷(しゃしょく)を危うくすることに忍びなかった。

 このために定敬は、会津を去って仙台に向かい榎本武揚の幕府艦隊に身を投じて箱館へ渡った。

ところが、本藩では家督の継承も無事に済ませ本領も安堵(あんど)されたのに、前藩主がいつまでも弓を引いていると聞こえも悪いどころでない。“朝敵”として藩全体に累が及ぶかもしれない。そこで桑名藩家老の酒井孫八郎はひそかに横浜から箱館に渡り、主君、定敬を説き帰順を勧めた。この結果、定敬はアメリカの蒸気船に坐乗(ざじょう)して箱館を去り、榎本軍降伏の当日に横浜に入った。まもなく尾張藩を通して新政府に帰順の意を伝えたのである。
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卑怯未練、少しもなく


 定敬は、将軍慶喜の恭順後も戦い続けたのだから、徳川恩顧の義理を十二分に尽くしたつもりであった。また、幕末以来ずっと戦い抜いてきた薩長への意地も貫いた気分だったに違いない。定敬の姿勢や覚悟には、どこを捜しても卑怯(ひきょう)未練な点は少しもない。また、明治10(1877)年に起こった西南戦争では、旧桑名藩士を率いて出征し薩摩人と思う存分に戦うこともできた。会津人ひいては実兄の容保と同じく、“戊辰の復讐(ふくしゅう)”を果たしたともいえる。さしずめ“朝敵回り持ち”ともいうべき不思議な縁を感じたはずである。

 作家の中村彰彦氏は、『闘将伝』(文春文庫)のなかで、「前譴(ぜんけん)を償い報効を表わさんとする旧桑名藩士は、旧臣立見尚文に従ってすべからく義勇奉公すべし」という趣旨の定敬の一文を紹介している。

定敬の許可を得て三重県に出張した立見は、450人の募集者を得たが、そのうち桑名人の応募は304人であった。

 また、会津藩領を含む福島県からは1136人が応募している。桑名と会津の両藩出身者で全国の応募者1万3千人の1割以上を占めたのである。“賊徒”や“朝敵”と名指しをされた者たちの深い恨みは、貴種の松平定敬と容保の兄弟にも共通していたに違いない。

 定敬は兄の後を継いで日光東照宮宮司の職を襲い、やがて従二位に叙せられて死没するのだから、まずまず以(もっ)て瞑(めい)すべしともいうべき生涯であった。立見は西南戦争終盤の城山攻略戦の最前線で最大の功労者となり、桑名人の名声を高からしめた。

 このように“敗者復活戦”がそれなりに機能していたのが日本人の隠れた歴史的美徳である。


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尊敬されるリーダーは


 さて、政権交代を余儀なくされた自民党には浪々の日々が続く。果たして自民党は敗者復活を果たせるのだろうか。定敬や容保のように部下や民から慕われ尊敬されるリーダーを試練のうちに育てられるのだろうか。野党としての精彩の欠如が気になるところだ。(やまうち まさゆき)(産経ニュース)



雷神隊隊長の立見尚文は西南戦争でいきなり陸軍少佐となり活躍する。

賊軍出身として陸軍大将となった。

常勝将軍だね。