中島三郎助  | 戦車兵のブログ

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戦車兵のブログ 「中島三郎助」

東大教授・山内昌之教授のコラム「幕末から学ぶ現在」より。
以下産経ニュースより転載


新時代の先端に立つ「木鶏」


 ◆息子や部下と忠義貫く

 福沢諭吉の「瘠我慢(やせがまん)の説」については連載98回目で触れた。福沢は新政府軍に降伏した榎本武揚(たけあき)を批判した文章で、250年の徳川恩顧に酬(むく)いるために「我等は我等の武士道に斃(たお)れんのみ」、榎本は降参したければするがよいと語った者がいたと紹介する。しかも、その中には「憤戦(ふんせん)止(とど)まらず、父子諸共(もろとも)に切死(きりじに)したる人もありしと云(い)ふ」とも書いた。


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この人物とは、蝦夷地(えぞち)政府の箱館(はこだて)奉行並(なみ)を務め、戦争が始まると本陣前の千代ヶ岡陣屋の隊長として戦死した中島三郎助にほかならない。彼は、榎本による五稜郭への撤退命令も、新政府軍の降伏勧告のいずれも拒否して、榎本が降伏する前に長男の恒太郎、次男の英次郎、浦賀奉行所与力以来の部下だった柴田伸助とともに凄絶(せいぜつ)な死を遂げたのである。

 榎本には彼なりの言い分もあるだろう。しかし、蝦夷地政府総裁が下僚や部下の生き死にを越えて降伏したのも事実なのだ。


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海江田経産大臣による次官以下3人の官僚更迭の報を聞いたとき、夫子(ふうし)自身はどうなのかと訝(いぶか)しく思った人も多いだろう。部下に腹を切らせて自分が安穏としているのは、どうも平仄(ひょうそく)がとれないのではないか。もとより海江田氏はとうに辞任の腹を決めており、後はタイミングだという見方も成り立つが。

 いずれにせよ、経産官僚3人の辞任と大臣のとりあえずの留任を聞いたときに、中島三郎助の出処進退を思い浮かべたのは、人間の貫目(かんめ)を比較すれば三郎助に申し訳ない気持ちもする。三郎助は新選組の面々と比べると地味ながら、今でもすこぶる人気のある幕府忠義の臣である。


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彼の名をつけた函館市中島町とともに、神奈川県横須賀市浦賀でも「中島三郎助まつり」が毎年開かれている。息子たちと一緒に北溟(ほくめい)に沈んだ義士への思いもさることながら、時代の先端を駆け抜けた男の爽やかさに現代人も打たれるのだろう。



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三郎助は幕末史の転回に間近に接した観察者であるだけでなく、行為者でもあった。嘉永6年6月(1853年7月)のペリー来航時には、浦賀奉行所与力として通詞の堀達之助とともに旗艦「サスケハナ」に乗船し、米国使者の応対にも当たった。アメリカ人は、船体構造や搭載砲や蒸気機関を入念に観察した三郎助をスパイと考えたようだ。時代の最先端の空気をじかに嗅いだといっても誇張ではない。しかもペリー帰国後、老中阿部正弘の英断でつくられた日本最初の洋式軍艦「鳳凰(ほうおう)丸」を製造する中心人物ともなり、竣工(しゅんこう)後は艦の副将となったというから運にも恵まれていたのだ。


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維新の元勲が慕った人柄

 そのうえ、安政2(1855)年には、幕府が開いた長崎海軍伝習所の第1期生として入所し、造船学・機関学・航海術を修めた。勝海舟とも一緒だったらしいが、両人は不仲だったとも言われる。幕府瓦解(がかい)後の新政府に対する2人の対照的な対応を見ると、この説もあながち根拠がないものでもない。軍艦操練教授方出役(しゅつやく)ついで頭取にあげられた三郎助は、長州の桂小五郎(木戸孝允(たかよし))に西洋兵術を教えたこともあった。同じ長州の吉田松陰や来原良蔵(木戸孝允義弟)とも付き合いがあり、ことに才幹を認めた木戸を家族ぐるみで厚遇した。三郎助はフェアで奥ゆかしい人物だったのだろう。


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木戸はクールな人柄と思われがちだが、新政府高官になっても三郎助の恩義を忘れずに、未亡人など遺族のたつきについても心配したという。病没する1年前の明治9(1876)年、明治天皇に従って五稜郭に向かう折、中島父子の戦死地を通過した木戸は人目をはばからずに号泣したといわれる。


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また、慶応3(1867)年に一緒に渡米した福沢諭吉が、幕府正使の不興を買って帰国後に謹慎させられたところ、福沢のために幕府要路に掛け合って処分を撤回させた。これは『福翁自伝』にも載っている話だ。福沢には「痩我慢の説」でそれとなく三郎助父子のために擁護の弁をはる根拠があったのである。


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こうしてみると三郎助は、同じ箱館で散った土方歳三(ひじかたとしぞう)と違った意味で清冽(せいれつ)な印象を残した人物だったことが分かる。彼の霊を慰める函館と浦賀の人びとの歴史と人物を見る目の確かさには驚くほかない。「木鶏(もっけい)」(木彫りの鶏のように全く動じない最強の闘鶏)と号した三郎助のような人間が、いまの日本の政界にも欲しい。(やまうち まさゆき)


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【プロフィル】中島三郎助

 なかじま・さぶろうすけ 文政3(1820)年、相模国(神奈川県)浦賀生まれ。父の跡を継いで下田奉行所の与力となる。嘉永6(1853)年、来航したペリー艦隊と折衝。安政2(1855)年、長崎海軍伝習所に入所し、幕府海軍で軍艦頭取などを歴任する。明治元(1868)年の戊辰戦争では蝦夷地に脱出し、翌2年、箱館戦争で戦死した。

(産経ニュース)


天然理心流の遣い手で、新撰組の近藤勇や土方歳三と同じ流派だった、中島三郎助。

函館に中島町という名を冠した町まである。

立派な人物だったんだね。


ちなみに函館には乃木神社も函館駐屯地前にあるよ。