殉死の日、乃木邸の前で撮影された写真。
この日、乃木大将は5時に起床、風呂に入った。
共に宮中に参内しなければならない静子夫人も湯を促した。
7時、女髪結いが来て、いつもと違うお下げに結った。
8時半に、前夜頼んでいた赤坂の写真師が来た。
宮内省からの出迎えの車も同時に来た。
陸軍大将の正装である大礼服を着て乃木希典大将は表門入り口で直立撮影し、さらにもう一枚、軍服の勲章を全部外して写った。
写真師が「伯爵、奥様と御同列に如何ですか」とたずねた。
希典は「明治天皇大葬儀」と見出しのあるその日の新聞を広げて写真におさまった。白襟紋付の静子夫人は夫から少し離れて写った。
天皇の棺を仮安置している殯宮で永別を告げてから、伏見宮邸に赴いた。
10時のことだった。
大喪の儀に参列する英国国王の名代コンノート殿下に謁見を賜り、昼前に帰邸した。
昼食は自家製で打つそば。
この頃乃木邸は、客をもてなすのにも蕎麦だけであった。
他には何も出さない、「乃木式馳走」と呼ばれた。
後の内閣総理大臣になる田中義一が訪ねた時もそうだった。
田中義一の回想「おらも今は陸軍中将だ。いかに乃木式とはいえ、蕎麦と冷や酒のもてなしとはひどいではないか」と旅順戦の後、乃木大将を更迭しようと唱えた参謀の一人であった、萩出身の田中は友人に愚痴っていた。
後に「おらは駕籠かきの子に生まれ、武士が切腹の前に蕎麦しか食べないことを知らざった」と、ひどく悔いたという談話を残している。
午後8時、弔砲が撃たれた。
各寺院の鐘も撞かれた。
二百万市民は一斉に皇居を遙拝した。
乃木大将夫妻はこの号砲を合図に自裁すると決めていた。
女中の知らせにより駆けつけた群衆整理の巡査が駆け付けた。
その巡査の談。
「鋭利なる日本刀を以て差し違え共に打ち伏して見事に絶息居たり」
先に静子夫人が短刀で喉を貫いた。
その即死を見定めた乃木大将は夫人の手から短刀を取り己の腹部を左から右へ横一文字に掻き切った。
ついで、右頸部から喉を走る気管と大動脈を切断した。
前夜12日に綴った巻紙の遺言には「静子との」とあった。
乃木希典64歳
辞世の句
「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」
「神あかりあかましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる」
乃木静子54歳
辞世の句
「出てましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふそかなしき」
遺書が静子夫人宛であることから、夫妻揃っての殉死は直前に決められたと言われている。
これにより乃木家は断絶した。
100年前の今日、乃木希典陸軍大将夫妻が明治天皇に殉死した日である。
黙祷