今日は昼からお茶のお稽古。風炉の炭点前です。ここのところ何回か炭の組み方をやっていたので、だいぶ覚えたけど、あと少しでも炉の季節になるから、その間に忘れちゃう…というか、こんがらがるんだろーなー。風炉と炉では間違い探しのように微妙に組み方が違うのだ。
今日のお軸は「掬水月在手」でした。
「水をすくったら、水に映った月が手の中にある」という意味。9月の掛け物だそうです。9月は中秋の名月もあるしねぇ、と別に疑問も持たずに見ていたのですが、原文を調べてみてびっくり。唐の于良史という人が作った「春山夜月」という題の、春の詩だった。
上のリンク先に代表的な解釈が4つ紹介されていますが、禅語として使われてるだけあって、どれも説教くさい解釈。でも元の詩は「春の山には素晴らしいことがたくさんある。夜になっても帰るのを忘れるほどだ。水をすくったら月が手の中の水に映るし、花を愛でればその香りが服に移る。興が乗れば近くか遠くか気にせず出かけ、帰ろうと思っても草花の良い香りに後ろ髪をひかれる。南の方で鐘が鳴ったので目をやってみたら、山の中の深い緑の中にお寺の高い建物が見えた。」…という春のハイキングをエンジョイしてる詩でした
。どうやったらこの詩から説教くさい解釈が捻り出せるんだろう…。
これは断章取義というべきか、オマージュというべきか、発想を飛ばしたというべきか…?
週刊誌やSNSで問題発言を取り上げられた人がよく「前後の文脈を無視して、一部分だけを取り上げ、自分の意図とは違う報じられ方をした」という主旨の弁明をすることがありますが、それに似てないか?
とはいえ、芸術の世界ではオマージュというのがあるしな。オマージュとパロディ、パクリの違いは、元の作品に対するリスペクトがあるかどうかだ、という説があるようですが、禅宗のお坊さんは、もちろん中国の文人をリスペクトしてるだろうから、これはアリなのかねぇ。
かく言う私は、禅語だろうから仏教的に解釈したら「手に入れたと思っても、それは実体のない幻だ」という意味かな、と思っていたのでした。はい、ハズレ。
そんなこんなで、お茶とは関係ない所で頭を悩ませてせしまったのだった。
ちなみにお花は白の芙蓉でした。9月13日が7代目お家元の忌日で、その日には白の芙蓉を床の間に供えるのだそうです。