カントによる、
『 実践理性批判 』の中心テーマは、
善とは何か? である。
さて、その前に、今までのおさらいを。
カントが『 純粋理性批判 』で辿り着いた結論は、
☑️ 私とは何か?
(私は不死の魂として死後も生き、
神に祝福される可能性があるのか?)
カントの結論は→不死の魂を知ることはできない。
☑️ 理性は世界全体を把握できるのか?
(世界の起源は神による創造があるのか?)
カントの結論は→世界全体を知ることはできない。
☑️ 神とは何か?
(神は確かに存在し、私と世界に
きちんとした目的を与えているのか?)
カントの結論は→神の存在を知ることはできない。
(神の存在証明は不可能)
(人間の生きる目的、世界の目的は
知ることはできない)
というものであった。
カントは『 純粋理性批判 』によって、
これらの問いに対し、
人間の理性は答えを出せない、と結論づけた。
さらに、
カントは理性の限界を知った上で、
人間の日常生活を根底から支えているような
これら哲学的根本的な問いへの答えを
示そうとした。
カントは、人間の純粋理性は、
客観的な世界それ自体(物自体)を認識できなくても、
純粋理性によって、主観に現れた世界には、
他者と共通了解できる(お互いに認め合える)
そういう秩序が存在し、
誰もが認める秩序なら、
それは当然「客観性がある」と言えるし、
「普遍性がある」と考えた。
純粋理論理性(問いをたて考える力)を使って
主観に現れた中から、
普遍性(法則)を取り出すという、
世界を認識する原理を発見したのである。
理性には限界がある。
しかしながら、その限界によって
答えを出せない問いがあるからこそ、
哲学にはもっと考えるに値する大事な問いがある、
カントはそう考えた。
それが、『善とは何か?』という、
『 実践理性批判 』の中心テーマなのだ。
ここでの主役となるのは、
「純粋実践理性」である。すなわち、
《善く生きることを考える力》としての理性。
本当に善いこととは、
どういうことなのか?を自分自身で考え、
その善いことに自分の意志を向けて
行為しようとする、道徳的生き方の原理。
さて、
カント哲学のポイントは、
【主観の哲学】であるということ。
主観の中から【普遍的なもの】を取り出す方法。
実は、この方法を、倫理学的展開に使ったのが、
『実践理性批判』である。
その結果、カントが取り出した「善の原理」が
次のような「道徳法則」である。
カントの【 定言命法 】と言われている。
『 君の意志の格率が、
いつでも同時に普遍的立法の原理として
妥当するように行為せよ 』
数学や論理学などと同じように
「根本命題」として【普遍性】を持ったものだ、と
カントはそう言っているのだ。
【定言命法】を
もう少し分かりやすく言い換えるならば、
『我が行いを見習えと、
誰にでも言い得るように行為せよ。』
ということになる。
自分の倫理基準に従って行為する、その行為が、
他人のお手本となるように行為しなさい、
と言っているのだ。
さて、ここで少しおさらいを兼ねて、
これまで学んできた
『実践理性批判』のポイントを
5分程度で分かりやすくまとめた動画を見てみよう。
分かりました?
「定言命法」と、「仮言命法」の違い。
さらに、
カントにとっての道徳は、非常に厳しく、
かなり厳格なものがある。
◉自分がかわいい、自愛
◉自分の欲望
◉快楽、不快
◉幸福になりたい
これら全ての「自己中心性」を克服せよ、
…と要求するような厳格さがある。
私たちは、カントの言う、
「自己中心性」を克服できる可能性を、
原理的に取り出せるのだろうか?
あなたはどう考える? 無理? 可能?
カントは、その可能性を
『自由』に求めて行ったのだ。
※実践理性批判(その2)に続く。

