好きな・・・ | 関東の刺客

好きな・・・

好きな漫画、映画、シンガーがあるように、、、、





自分の専門の領域で好きな・・・というのはあります。





Jの専門は技術なので好きな技術者というのももちろんいます。






誰???





今日はそんな一人の技術者のポリシー生き方を書きたいと思います。







近年、デジタルカメラというものは日常の生活には欠かせないものとなりました。




一昔前までは





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写るんです。フィルムカメラで撮り終えたらコンビニとかで現像とかして写真にしておりましたね。
Jも高校/大学時代はそうでした!




それが今の時代では写メを代表に、すべてデジタル化したカメラになりましたね。$関東の刺客   $関東の刺客
左:CCDセンサ搭載携帯カメラ 右CMOSセンサ搭載コンパクトカメラ





このデジタルカメラのデジタルフィルム部分を商品化に成功させた一人の技術者がJは世界で一番好きな技術者なのです。



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トランジスタラジオを実用化させた岩間 和夫さん (ソニーの研究所所長であり、3代目社長)



デジタルカメラの礎、CCDカメラにに命をかけた方だ!






時は40年前の1970年




研究所のお遊び研究としてCCDを研究していたグループがある。



今では考えられない8画素のCCD使って撮った絵が出た。8画素とは、光を電気に変えてためる受光部とそれを運ぶ転送部の1組が、1個のCCDの中に8つあるということだ。画素数が多いCCDほど、撮影された絵はきめ細かくなる。

ついに8x8=64画素の画面に「S」の文字を浮かび上がらせることができた。CCDの生みの親であるベル研究所でさえも実用化を断念し、他社も息切れしていた1972年のことである。実用化など不可能だ。

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64画素数のSと言う文字だ。解像度が低いのでもはや5という数字にも見えるwww
また、半導体の欠陥が多すぎて筋だらけだ。



 しかし、CCDがこんなヨチヨチ歩きの赤ちゃんのような状態の時に、この将来性を見い出した人がいた。当時副社長の岩間 和夫である。半ば遊びながら研究していた研究者たちに、


「CCDを何としてでもモノにしろ」


と本格的な開発開始の大号令をかけたのだ。



「CCDを使って5年以内に、5万円のビデオカメラをつくるんだ。競争相手は電機メーカーではない。世界最大手のフィルムメーカーのイーストマン・コダック社だ」。



明確だが謎めいた目標だった。確かにCCDを使えば、従来のフィルム・撮像管を使ったカメラに比べ、格段に小型で持ち運びが便利な、しかも画像が安定したカメラができるはずだ。


「しかし、なぜ畑の違うコダックなんだ?」
※今では、CCDを代表にフィルムからデジタルセンサにすべてのカメラで置き換わっている。カメラ・フィルムメーカーがすべて電子化されていることが、当時としては、考え方が先進すぎて技術者達がソニーは電機メーカーなのに何故??と思ったに違いない。


研究者全員が意味を計りかねていた。


1973年11月、研究員やプロセスのすべてが各工場から中央研究所へ集結させられ、電子の「眼」CCDの本格的な開発がスタートした。




何が研究開発の中心になったか?


今では当たり前となったが、とにかく感度や解像度(画素数に比例する)という基本的な性能を、上げていかなければならない。


同時に、微小なゴミによって発生する黒点、重金属の汚染による白キズなど、画像欠陥の問題を取り除いていかなければ、到底実用化には至らない。しかし、これが全然思うように進まない。



 それでも何度となく、開発中止、時には禁止の危機が訪れた。

CCD開発は、使う装置などに莫大な投資を必要とし、社内で「金食い虫」と呼ばれ、肩身の狭い思いもした。


しかし、そんな彼らの後ろには、絶えず岩間社長が見守っていた。




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1ヵ月に一度は中央研究所を訪れた。相変わらず、かろうじて何かが映っているのが分かるような、黒や白のスジだらけのぼんやりした画像を見て、


「どうしてもっとマシな画像が出ないんだ!」


と問いつめることもあったが、「諦めずに研究を続けよう」と進むべき方向を示し続けた。



実際、岩間社長も、予算を承認する立場にいた大賀さん(岩間社長の次の社長)に、



岩間社長:「CCDにはこれだけお金を使う。しかし、今世紀中に回収できるかどうか分からないよ


現にCCDをモノにするために、開発に必要な関連会社を買ってしまうくらいに情熱を燃やした。




こうして岩間さんの情熱と、それを受け止める技術陣の奮闘の中で、画素数も着実に上がっていった。2000画素、8000画素、7万画素。そして、1978年には 12万画素になった。




必死の努力の末、1983年から鹿児島にあるソニー国分セミコンダクタ(現ソニー国分)で本格的な量産が始まった。





 しかし、CCDの量産の開始、そしてそれを搭載した民生用カメラの登場を誰よりも喜んだであろう岩間さんの姿はもうこの世になかった。



1982 年、ソニー国分でCCDの量産化にめどが立った頃、「岩間さんが病に倒れた」との報告がもたらされた。



病床でも、「CCDの工場を必ず見に行く」と言い続けていた岩間さんだったが、結局新しい工場を見ることもなく、1982年8月に帰らぬ人となった。



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先ほど出てきた岩間さんの後継者、大賀社長





大賀さんは岩間さんの後を継いで社長になり、CCDの量産化、事業化を進めていた、量産が始まると、最初の生産品の中からCCDチップを1個持って、岩間さんの墓前へ報告に行った。




そして、しっかりと墓石の後ろにそのCCDを貼り付けながら語りかけた。

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※CCDが貼られた岩間さんの墓石※


大賀さん:「岩間さん、あなたが情熱を傾けたCCDがとうとう量産できるようになりました」。


今でもその 岩間さんがしっかり握りしめているかのように、風雨に耐えたCCDがその姿をとどめているという。


非常にすばらしい話であり、諦めない姿勢には尊敬です。


今は、Jはこのような遺産を受け継ぎ、カメラのセンサ開発している。
このような情熱を持っている遺伝子を大切にしていきたい。