自分の思い通りに物事が進まないときには、

 

それを全部他人のせいにすると楽なのだと思います。

 

主体が「自分」であるときは、

 

「私はこうしたかったのに〇〇さんが言うとおりにやってくれなかったから」

 

「××さんがこう言ったから」「△△さんが協力してくれなかったら」

 

だから、出来なかったの。私は悪くないの。だって周りが悪いんだもの。

 

そう思うと、すごく楽なのだと思う(とても恥ずかしい事と思うので私はやらない。なので憶測だけど)

 

主体が「私の好きな人」の場合は、ちょっと厄介で。

 

これは彼氏や旦那様が浮気した時に似た感覚になるのだと思う。

 

彼や旦那に怒るのではなく、「私の彼(旦那)に色目を使ったあの女が悪い」。

 

浮気したのは、まごうことなき自分の彼であり、旦那なんだけれど

 

そこを認めてしまうとプライドも傷つくから「あの女が悪い」。

 

いずれにせよ、「責める対象」を「自分と自分の好きな人以外」に設定すると気持ちが楽になる。

 

そしてその対象を責め立てることで、「自分」と「自分の好きな人」は正しいのだと実証できる(と思ってしまう)。

 

問題は、そこではないのに。

 

今回のことで、どうしても当時を思い出す。

 

自分の好きな人が伝えてくれた言葉を信じないのは何故なのだろう。

 

ちゃんと最後まではなしを聞かないのは何故なのだろう。

 

陰謀で片づけたほうが自分が楽だから。

 

この私が好きになった人なのだから、私の思った通りの人でなきゃおかしいし、

 

私が思った通りに活躍しなきゃおかしい。

 

私が思った通りの賞賛を世間からもらえなきゃおかしい。

 

なんで私の思った通りに周りが認めないの?

 

なんで私が思った通りに活躍してくれないの?

 

「そうか。私の目が間違っているわけないのだから、周りが悪いんだ」

 

「この結論に至ったのは、周りが悪いからだ」

 

だから、攻撃する。

 

『好きな人のために』という大義名分をつくって。

 

そうすれば、『私』は傷つかないし、むしろ正義の人だし、周りが悪いんだから私は悪くないもの。

 

この時点で、大切なものが「好きな人」ではなく「私の考え」になってしまっているのだけれど…。

 

なぜ、こんなことを書いたかというと。

 

事務所やジュリ―さんへの中傷があまりに度が過ぎると感じたから。

 

ジュリーさんへのイメージは、正直良いものがない。

 

何故かと言うと、悪い噂しか聞こえてこないから。

 

ただ…その悪いイメージをつけている根本は、週刊誌などなのですよね。

 

私、ジュリーさんにお会いしたこともないし、お話ししたこともないので

 

「聞いた話」でしか、ジュリーさんの人柄を知らない。

 

その聞こえてくる話は、全部週刊誌系の、これまた知らない「誰か」の言葉。

 

しかも、ほとんどが「芸能に詳しい人物」とか「関係者」とかで、お名前も出ていない。

 

すごーーーく意地悪な言い方をすると、例えば、清掃会社のスタッフさんでそこの仕事として

J事務所の掃除に週に1回数時間行っているだけでも、「事務所関係者」と言っちゃう人もいるということ。

 

そんな(私にとって)信用のない人の言葉は鵜呑みにできないし

 

仮に関係者wだとして、そんな機密事項をベラベラ話す人は信用できない。

(おおかた風見鶏だろうと判断する)

 

なにより、片側だけの話しか聞かない状態で物事は判断できない。

 

「信じるべきは自分の好きな人が発した言葉」

 

それ以外は、こちら側の妄想・想像であるということを弁えておかないとね。

 

共通の敵をつくると、確かに団結力は生まれるけれど

 

自分が妄想して生み出した敵との戦いの中に『推しの想い』は存在しないから。

 

 

人を無能呼ばわりするけれど

 

本当にそうだったら実現化出来ていないはずの功績がいくつもある。

 

そこを一切合切無視している時点で「前提しっかりしてから持ってこい」と一社会人としては思ってしまう。

 

去る人がいる一方で、その人が開けた穴を埋めるべく頭を下げて回る存在があることも忘れたくはない。

 

頭を下げる人がいるからといって、去る人が卑屈になる必要もない。

 

どちらにとっても、誰にとっても、責める言葉は何の得にならないと思っています。

 

その根本が、「聞いてきた事実(作られた事実)」であるなら、余計に。