がんと闘う(32)
「咽頭がん」 三木たかしさん、忌野清志郎さんも…
忌野清志郎さんからの手紙 闘病時、小児がん幼児にエール
2009.5.26 08:25 産経ニュース
■「そして、遠く離れていても、いつも、いっしょにのんびりとがんばって行こうぜ」 5月2日に58歳でこの世を去ったロック歌手、忌野清志郎さん。派手なメークと奇抜なヘアスタイルの一方で、小児がんと闘う幼児に直筆の手紙を送るという心優しい一面もあった。手紙を受け取った幼児の父親は「わが家の家宝として額縁に入れて飾っています。忌野さんの元気やユーモアを受け継いでいきたい」と話す。(竹中文) 20年来のファンだった宮崎県日向市の会社員、甲斐譲司さん(41)が忌野さんにファンレターを送ったのは、忌野さんががんに侵されていることを知った平成18年の夏だった。当時2歳だった甲斐さんの次男、賢太ちゃんは、前年に「小児がん」の診断を受けていた。甲斐さんは、闘病中の賢太ちゃんの写真を同封し、便箋(びんせん)に「賢太も頑張っていますので、清志郎さんも頑張ってください」としたためたという。 忌野さんから小包が届いたのは、それから約1カ月後のこと。小包にはサイン入りのTシャツや本など、忌野さんのグッズがぎっしりと詰まっていた。直筆の手紙もあり、力強い文字で「君のおかげで勇気がわいてきたよ。これからは、いっしょにがんばろう! つらい時は君を想い出すよ。君がつらい時は、ぼくを想い出しておくれ。そして、遠く離れていても、いつも、いっしょにのんびりとがんばって行こうぜ」と励ましの言葉がつづられ、結びには「ぼくも、今、頭はツルツルボーズだよ」とあった。 手紙を読み、声を出して泣いたという甲斐さんは「仕事をしながら、4時間かけて次男が入院中の病院に通っていた時期でした。体力も気力ももう限界だと感じていたのですが、手紙のおかげで元気をもらい、なんとか乗り切ることができました」と振り返る。
昨年、忌野さんが復活を記念して東京・日本武道館で開いたコンサートには、妻と2人で足を運んだ。「忌野さんが亡くなったときは、息をするのも忘れてしまうくらい茫然(ぼうぜん)とした」と言うが、今は「忌野さんからもらった元気やユーモア、優しさを受け継ぎ、伝えていきたいと思っている」。5歳になった賢太ちゃんは今は自宅療養中で、忌野さんからの手紙は家宝として額に入れて飾ってあるという。 忌野さんと手紙で交流したファンは全国各地にいたようだ。所属事務所の担当者は「ファンクラブにはたくさんの手紙やプレゼントが届きましたが、彼はそのすべてに目を通していました。返事を書くこともあったようです。仕事場で手紙を書くようなことはなく、プライベートな時間につづっていました」。 忌野さんと交流があった歌手の加藤登紀子さんは、がんと闘った夫を看取(みと)っている。「コンサート会場などで何度か忌野さんと会いましたが、いつも静かにほほえんでいました。がんと闘っている人と手紙で交流していたと聞いて、あの笑顔や歌は、そうした『愛』によって作られたのだなと実感しました。昨年のコンサートでは、闘病中に階段が一段も上がれなかったことを打ち明けながら、ジャンプしていましたが、その姿に勇気づけられた闘病者はたくさんいたはずです」と忌野さんをしのんだ。 |
がん克服し、K-1甲子園へ 宇都宮南高の牧野君
(6月26日 05:00)下野新聞
【宇都宮】高校生の「最強格闘家」を決めるK-1甲子園に宇都宮南高3年、牧野亮佑君(18)が挑戦する。空手やボクシングの経験があり、28日に千葉県木更津市で開かれる関東地区予選と、その後のトーナメントを勝ち抜けば年末の本戦出場がかなう。昨年がんで長期入院を余儀なくされたが、約1年で学校生活に復帰。治療に耐えた自信を胸に「支えてくれた家族や友人にこの体でも頑張れる姿を見せる」と意気込む。 「今できることをやりたい」。今年5月から泉町のK・S宇都宮ジム(金沢裕一会長)でトレーニングを始めた。その思いの裏には、甲子園でプレーする夢を絶たれた悔しさがある。
小学生から野球を続けていた。甲子園出場の可能性に期待し、高校は強豪の宇都宮南を選択。きつい練習に耐えて高2の春にベンチ入りを果たした。翌年チームはセンバツ出場を決めた。 「夢がかなう」。その矢先、腰に直径約6センチのしこりを見つけた。診察は小児がん「横紋筋肉腫」。症例が少なく手術が難しい病気とされるため、都内の大学病院で抗がん剤と化学療法による治療を進め、手術に望んだ。 歩行リハビリを受ける中、薬の副作用で髪は抜け、嘔吐を繰り返す。家族や友人に「頑張れ」と励まされても気持ちは折れる。甘えから乱暴な言葉をぶつけたが、本音は感謝の思いでいっぱいだった。 あこがれのプロ野球選手で、東京ヤクルトスワローズの青木宣親選手の言葉も支えになった。ある日突然手元に届いた使用済みのバットや色紙。そこには「一緒に頑張ろう」と一言。共通の整形外科医を介し、チーム関係者が牧野君の事情を伝えていた。「がんと自分に負けない」と決めた。 予選当日は家族のほかジム会長や仲間も応援に駆け付けるという。留年し、現在はテスト期間中の身だが「今は赤点覚悟で試合に集中したい。目標はベスト16」と話す。 がん克服の元球児・牧野、判定で初戦敗退 |
昭和の宝がまた…作曲家・三木たかし氏が逝く
■テレビ番組「スター誕生!」で共演した作曲家、都倉俊一さんのコメント 「同じ世代で、ほんとに仲間を亡くしたという感じで非常にショックでした。三木さんは昔から一緒に旅をしたり、同じ音楽家として尊敬し、ライバルとしても仲間としても親しかった。晩年の彼の病気との闘いを見て、ほんとに苦しそうだった。眠るように逝ったと聞いて、それだけが慰めです」
【三木たかしさん葬儀】萩本欽一さん弔辞「今日で友達をやめます」 「今、びっくりしています。いきなり友人代表です。でも三木さんを友達だと思ったのは本当は最近です。『紫綬褒章のパーティーがあるから来てね。絶対来てね。来ないと駄目だからね。絶対だからな』。その言葉が友達のようでした。三木さん、友達のように話して。そう思いました。そして今日です。正直言って、三木さんと今日で友達をやめます。やっぱり以前のような気持ちに戻りたいと思います。三木先生、ずっとありがとうございました」 《萩本さんは一言一言、言葉をかみしめるように、ゆっくりと語った》
【三木たかしさん通夜】八代亜紀さん「早すぎて切ないです」 ■「竜二」の曲を提供された歌手、八代亜紀さんのコメント 「若すぎた死に本当に驚いています。(死が)早すぎて切ないです。先生の曲には、世の中を思いやる人柄がよく出ていました。1日中、キャンペーンの仕事をしたときも最後の打ち上げまでおつきあいしていて、静かにいつも笑っていました。今日は『安らかに眠ってください』と声をかけ、『ありがとうございました』ではなく『ありがとうございます』と声をかけました」
■「追憶」を提供された歌手の五木ひろしさんのコメント 「荒木とよひささんの友人代表の弔辞を聞いて、より悲しくなりました。もっともっといい歌を、いい曲をきっと作りたかったと思いますし、無念というか残念でならない。(最後に会ったときは)なんとか必死になって話してました。そのときに『病気と闘う力が歌であり音楽である、自分は音楽があるから闘っている』と一生懸命言っていて、私もその歌をいただいて、歌って、その力で元気になっていただきたいと思っていました。自分の人生の中でとても大事な時に作品をいただき、特に昨年いただいた『凍て鶴』は、病気の中で必死の思いで作っていただいたことがメロディーを聞いていても分かった。歌というのが音楽というのが三木先生の命でした」 【三木たかしさん通夜】森昌子さん「童謡のような歌を歌わせたいと…」 ■「愛傷歌」を提供された歌手、森昌子さんのコメント 「とにかく優しくて、涙もろくて、思いやりがあって心の温かい先生でした。昌子には、童謡のような歌を歌わせたいと言ってくれました。いつでも天国で先生が見ていてくれると思うので、大切に歌いたいと思います」
■三木さんと「つぐない」や「時の流れに身をまかせ」など、400曲のコンビ作を世に送り出した作詞家、荒木とよひささんの弔辞 「三木たかしさん、いや、たかしちゃんと呼ばせてください。本当はこの場所で、たかしちゃんの前で弔辞は読みたくはありません。できるなら、たかしちゃんの隣に付き添って一緒にいてあげたい。たかしちゃんは白いセーターでギターを持って。ぼくは赤いセーターで原稿用紙をもって。ずっとそばにいたかった。 たかしちゃんは曲がったことが嫌いで、何事につけても潔い人だったけど、1つだけウソをつきましたね。「ぼくは長生きだから、とよさんを見守って弔辞を読むから」と言っていましたね。どうして先に逝ったのですか。 たかしちゃん、覚えていますか。出会ったころ、毎日のように銀座に出かけ、ブランデーを回し飲みしたこと。ぼくが松葉づえをつき、できたてのわらべ(ユニット)の歌を持っていったこと。大阪のクラブで大げんかし、表に出て小さなビールケースに座って何時間も言い合ったこともありました。たかしちゃんが原宿の仕事部屋を家出して、たかしちゃんと卵丼を食べたこと。「とよさんは料理の名人だよ。作詞よりいいよ」と言ってくれました。 たかしちゃん、おぼえていますか。たかしちゃんは囲碁が好きで、ぼくは将棋が好き。たかしちゃんは近藤勇が好きで、ぼくは竜馬。たかしちゃんはすうっとした美人好みでぼくはふっくらとした人が好きで。たかしちゃんはワインで、ぼくは焼酎。たかしちゃんは夜型で、ぼくは朝型。たかしちゃんはゴジラが好きで、ぼくはキングギドラ。たかしちゃんは潔すぎて、ぼくは優柔不断。
でも、1つだけ同じものがありました。今年も咲いた桜の花。その桜を思う気持ちはいつも一緒でした。たかしちゃんはぼくの心の中で咲いたままの桜の花です。 最後に会った病室で、たかしちゃんがかすかな息づかいをして、筆談で「ありがとう、とよさん、ごめんな」と書いたのは何だったんですか。このままたかしちゃんとはお別れしますが、いろいろとありがとう。ごめんね、はぼくの方です。たかしちゃん、さようなら。安らかに、安らかに逝ってください」
【三木たかしさん通夜】黛ジュンさん「しかってくれる人はほかにいなかった」
■歌手で妹の黛ジュンさんのコメント 「余命の告知を受け、覚悟はしていましたが、あまりに突然でまだ受け止めることができません。兄は本当に前向きに治療に励み、最後まで闘おうとしていました。 (兄は)長期療養で岡山に行っていましたが、私が1度目に行ったときは2人だけで話をすることができ、『ジュン、ありがとう。よく来てくれたね。とてもうれしいよ』と言ってくれました。2度目に行ったときは、意識が朦朧(もうろう)としていて、私が何を問いかけてもうなずくだけでした。弱音をはくようなことはまったくなく、本当に強かった。 仕事の方でも、大勢の方の作曲を手がけていて、書きかけの譜面がたくさんありましたが、最後までがんばって書こうとしていました。譜面は祭壇にも飾ってあります。 兄との思い出はすべて昨日のことのように思いだされます。音楽には厳しい面もありました。(石川)さゆりさんと兄と私とで食事をしたときに『本当に厳しく指導したのは、石川さゆりとジュンだけだったよ』と言ってくれました。厳しくしかってくれる人が(兄の)ほかにいなかったので感謝しています。 私は兄にほめられたくて歌っていました。これからどうやって歌っていいのか考えられません。やせ細った兄の姿を見てたまらず、兄の体にしがみついて泣いたときに、『ジュン、泣くな、頑張るから泣くな』としかってくれたこともありました。 恵理子(三木さんの妻)のことを『頼むよ』と覚悟したかのように言っていました。義姉の看病には心から感謝しています。兄には『ありがとう。そして私はこれからどうしたらよいのか教えてちょうだい』と言いたいです」(涙ぐんで) |
ブログから3 ■三木たかし氏の最後の歌声「さくらの花よ 泣きなさい」
三木たかし氏の“弟子”である保科有里の最新作「さくらの花よ泣きなさい」のシングルには、 カップリングとして、同曲を三木たかし氏自ら歌ったバージョンが収録されています。
咽頭がんの手術で声帯の半分を切除する前に、最後の歌声を残しておきたいと 三木氏がレコーディングしたもの。Amazonのサイトで少しだけ試聴できます。↓ |
こんなブログを見つけました。
有名人が立て続けにガンで亡くなりました 三木たかしさんも追悼番組が放映されました。 「癌を予防するにはどうしたらいいの?」 という特集を組んだ番組はあったのでしょうか? あんなに人気のあるミュージシャンが癌で命を亡くしたのです。 どうやら日本には、 「癌にかかるリスクは誰にも平等にある」 という前提・雰囲気があるようです。 でも、そんなことは全然ないんです。 テレビは癌予防の番組は制作しません。 巨大なスポンサーがいるからですね? だから我々がブログやHPで情報を発信するほかありません。
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