がんと闘う(30)

取手二高V腕・石田文樹さん死去

石田文樹茨城県立取手二高時代に甲子園でPL学園の桑田、清原の“KKコンビ”と死闘を繰り広げた横浜ベイスターズのチームサポーター(打撃投手)、石田文樹さん(登録名・大也)が15日午前1時40分に直腸がんのため、横浜市内の病院で死去した。41歳。通夜は17日午後7時から、葬儀・告別式は18日午前10時から。ともに新横浜奉斎殿(横浜市港北区菊名7の10の8)で。喪主は妻・寿美江さん。

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甲子園V投手が41歳の若さで天国に旅立った。石田さんの突然の訃報(ふほう)に、横浜ナインは深い悲しみに包まれた。

石田さんは取手二のエースとして84年夏の甲子園決勝で当時2年生だった桑田、清原のKKコンビを擁するPL学園の連覇を阻止。全国の頂点を極めた。その後、早大に進学したが中退。社会人の日本石油を経て、88年に横浜大洋ホエールズ(現ベイスターズ)に入団した。中継ぎとして活躍し、94年に引退後は打撃投手としてチームに貢献してきた。

今シーズンもキャンプ、オープン戦と1軍に帯同していたが、3月に体調不良を訴えた。直腸がんと診断され、4月に摘出手術を行った。その後、闘病生活を続けていた。術後にチーム関係者が見舞った際には「グラウンドに戻って、またバッティングピッチャーをやりたい」と現場復帰に意欲を燃やしていたというが、かなわなかった。

同期入団の石井琢は、別れを惜しむように石田さんのユニホームを身につけて練習し「余命を知ってからは顔を見るのはつらかった。こんなことは信じたくない」。全選手喪章をつけて広島戦に臨んだ。

(ディリースポーツ 7月16日)

石田氏は茨城県出身で取手二のエースとして84年春夏連続甲子園出場。春は準々決勝で優勝した岩倉に敗退。夏は決勝に進出して、当時2年生だった桑田、清原の“KKコンビ”を擁して連覇を狙ったPL学園を延長の末に8―4で下して日本一に輝いた。卒業後は早大に進学したが中退。その後は社会人野球の日本石油(現新日本石油ENEOS)入りして87、88年の都市対抗にも出場した。88年ドラフト5位で大洋(現横浜)入団。主に中継ぎとして通算25試合1勝0敗、防御率4・59で94年に現役引退。その後はチームサポーターとして打撃投手などを務めていた。

関係者によれば石田氏は今年3月中旬に体の不調を訴えて入院し、4月に直腸がんの手術を受けた。一時は快方に向かって5月に退院したが、6月下旬に再入院。ベッドでは「もう一度バッティングピッチャーをやりたい」と復帰を夢見ながら、最下位に低迷する横浜の動向を常に気にしていた。また、神奈川・川和で控え投手としてベンチ入りしている長男・翔太くん(2年)の晴れ姿を見るのを楽しみにしていたが、かなわなかった。

(スポーツニッポン最終更新:7月16日7時1分)

石田さん告別式 石井琢「サヨナラはいわない」
直腸がんで15日に亡くなった横浜の石田文樹打撃投手(享年41)の告別式が18日、横浜市の新横浜奉斎殿で営まれた。大矢監督らチームメートをはじめ、関係者約500人が参列し、別れを惜しんだ。

左袖に黒いリボンをつけ、ユニホーム姿で祭壇に手を合わせた。横浜の監督・コーチ陣と27選手がギュッと唇をかみ締める。病床でもう1度ユニホームを着たいと願いながら、かなうことのなかった石田さんへの“惜別の思い”だった。

「試合をしていても、練習中も石田さんの影がちらついて…。こんな形でお別れするのは辛く、悲しい。悔しいです」

弔辞をよんだ石井琢朗内野手(37)は、1989年にともに投手として同期入団(当時は大洋ホエールズ)。野手と打撃投手に立場は変わったが、兄のように慕ってきたという。

涙で声を詰まらせながら「心の中にずっと生き続けているので“サヨナラ”はいいません」と締めくくると、会場にはすすり泣きがもれた。また、大矢監督は「彼のためにもチームを強くするのが使命と思う」と誓った。石田さん、安らかに-。

(サンケイスポーツ 2008.7.19 09:55)


石田「オヤジ勝ったぜ」手向けの1勝
父の捧ぐ1勝・ウィニングボ-ルをじっと見つめる川和・石田翔太第90回全国高校野球選手権記念大会(8月2日から17日間、甲子園)は16日、全国37地区で239試合が行われた。北神奈川大会では茨城・取手二のエースとして84年夏の甲子園優勝投手に輝き、15日に死去した石田文樹さん(享年41)の長男、川和の石田翔太投手(2年)が力投。勝利に貢献した。鹿児島大会では鹿児島実が4年ぶり16度目の出場を決め、試合後の本大会抽選で同校は大会2日目の第1試合に初戦が決まった。17日は33地区で210試合が行われる。

【川和8―5霧が丘】悲しみはグラウンドの外に置いてきた。15日に横浜の打撃投手だった父・文樹さん(享年41)を亡くした2年生右腕、石田が志願のマウンドで力投。ポーカーフェースに17歳とは思えない精神力がにじみ出ていた。最速135キロの直球にスライダー、カーブを交えて4回0/3を3安打4失点。打線の援護もあり、チームは2回戦突破だ。

私情は持ち込みたくなかった。自分がエースだと思っているので(出場に)迷いはなかったです。オヤジなら“行け”と言うと思う」

15日午前1時40分。父を横浜市内の病院でみとった。幼い頃のキャッチボールから始まり、野球のすべてを叩き込んでくれた。スライダー、カーブの握り、そして投球フォームは84年夏に茨城・取手二のエースとして甲子園優勝を飾った父の直伝だ。病床で意識がなくなった父には「ありがとう」と呼びかけた。

午前4時に病院から帰宅。午前7時には朝練習に参加してこの試合の先発を直訴した。一晩中悩んだ新貝監督も「顔つきが普通だった」と先発を決めた。制球を乱す精神面が課題で背番号20を背負う石田だが、三條部長は今回の力投に「頭が下がります」と称賛した。

17日が通夜、18日は告別式が営まれる。3回戦の渕野辺戦は20日だ。「絶対勝ちます」と石田は言った。球場から出て1人になった時、初めてポーカーフェースが崩れた。新貝監督から渡された“ウイニングボール”を握り締め、父を思って泣いた。

◆石田 翔太(いしだ・しょうた)1991年(平3)7月7日、横浜市生まれの17歳。小2から少年野球「山下ジャイアンツ」で野球を始めて以来投手一筋。緑が丘中では軟式野球部に所属。球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ。家族は母、弟、妹。1メートル71、61キロ。

[スポーツニッポン 2008年07月17日 21:59]

登板せず…亡き甲子園優勝投手の父に誓う「来年こそ」

【麻布大渕野辺7-0川和】北神奈川大会では、川和が昨夏の8強進出に及ばず7回コールドで3回戦敗退となった。84年取手二(茨城)で夏の甲子園優勝投手となり、15日に死去した石田文樹さん(享年41)の長男・翔太投手(2年)は、ここまで2試合先発もこの日は登板なし。通夜、告別式が続いて心労が蓄積されたことによる岩本監督の配慮だったが「悔しい夏です。偉大な父を目標に来年は頑張りたい」と気丈に振る舞っていた。 【北神奈川大会結果】

[スポーツニッポン  2008年07月21日 08:33 ]


天国の文樹に最高の贈り物だっぺ!木内激勝
木内幸男監督

茨城【常総学院3―2霞ケ浦】第90回全国高校野球選手権大会、茨城大会決勝では木内幸男監督(77)率いる常総学院がサヨナラ勝ちで霞ケ浦を下し、3年連続12度目の甲子園出場となった。

天国の教え子にささげる甲子園切符だ。劇的なサヨナラ勝ちで、木内監督率いる常総学院が夏の甲子園をたぐり寄せた。15日に84年夏の甲子園を制した取手二のエース、石田文樹・横浜打撃投手が41歳で死去。「優勝というこの日を迎えるために悪いけど葬式には行けないと。優勝を報告できるのは幸せなことだね」としみじみと語った。

初回から木内マジックが的中した。1死一、三塁から一塁走者・島田が挟殺される間に三塁走者・鈴木が本塁を陥れて先制。だが87年夏の甲子園準V右腕・島田直也氏を父に持つ隼斗主将が4回につかまり同点。6回には失策で勝ち越しを許した。それでも島田が追加点を許さない粘投を見せると9回2死一、三塁、カウント2―3から宇津木が同点適時打。さらに延長10回1死満塁から川崎がサヨナラ右犠飛を放って3年連続の全国を決めた。

大会中で葬儀にも参列できなかった。石田氏死去の翌日は土浦二と3回戦を戦っていた。「生きてるもんが頑張らないといかんからね」。隼斗も父が同時期に横浜に在籍した関係で、遊び相手をしてもらったことがあったといい「最高です」と天に向かって絶叫した。

甲子園終了後、石田氏の元へ駆けつけることにしている。たくさんの思い出が詰まった聖地。03年夏以来の全国制覇を墓前に報告することが何よりの供養だ。

[ スポーツニッポン 2008年07月25日 ]