がんと闘う(21)

作詞家・阿久 悠さん「がんに死す」

訃報が続く。実はこのシリーズNo4で阿久 悠さんをとりあげている。おおよそ1年前のことである。この記事に触れるまで阿久 悠さんが「がん」であることを私は知らなかった。写真を見ると顔にシミが多い。
人は年をとるとともにシミが増える(人もいる)。老化現象、年だから仕方がないとあきらめている方もおられるかもしれない。
しかし、肌に出るシミが多ければ多いほど、健康上の問題があると私は思うのです。
体内で活性酸素クンが大活躍している証で、ガンの警告だと考えてもおかしくないと私は思います。
ところが、還元水を飲むと「シミ」がなくなる。加齢臭もなくなる。(こういうことを書くと、またまたウソだ何だと「エセ科学批判マニア」が登場する。そんなもん、還元水飲んでみれば分かることじゃ)

作詞家、阿久 悠さんは昭和12年、兵庫県・淡路島生まれ。昭和34年、大学を卒業後、広告代理店に入社し、CMやテレビ番組の企画に携わる。昭和40年、フリーの放送作家となり、やがて、作詞も手掛け始める。昭和46年「また逢う日まで」でレコード大賞を受賞。以来、沢田研二やピンク・レディーの曲で、数多くのヒットを飛ばす。さらに「北の宿から」、「津軽海峡・冬景色」「舟歌」など、演歌の名作を世に送り出した。
また、企画にも関わった「スター誕生」からは、森昌子、山口百恵など多数のアイドルを生み出した。

昭和最大の作詞家・阿久悠さん死去

 「勝手にしやがれ」「UFO」「北の宿から」など数多くのヒット歌謡曲を手掛けた日本を代表する作詞家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが1日午前5時29分、尿管がんのため亡くなった。70歳だった。葬儀は近親者のみで行い、後日「送る会」を開く。01年から入退院を繰り返しながらがんと闘い、40年の作詞家人生で生涯5000曲余り、亡くなる直前まで執筆を続けていた。ゆかりのある都はるみ、八代亜紀らが会見し、追悼コメントを寄せた。

 阿久さんのブレーンとして闘病生活を見守り続けた放送作家の河村シゲルさんによると、阿久さんは01年にがんを患い、片方の腎臓を摘出。腎臓は治ったが、約半年後に新たに尿管がんが見つかった。以後は入退院を繰り返しながらがんと闘い、3月に行われた石川さゆりの35周年パーティーで元気な姿を見せた。

 6月まで作詞やラジオなどの仕事を精力的にこなしていたが、7月10日に体力づくりのため、再入院。病床でも作詞するなど元気な様子だったが、同中旬ごろから病状が悪化。31日夜9時ごろ、危険な状態に陥り、河村さんが病床に駆け付けたが、ほどなく回復。「珍しく右手を差し出して握手を求めてきたので握り返して病院を出た」(河村さん)という。

 が、翌1日の午前4時ごろ再び容体が悪化。河村さんも再度、病院に駆け付けたが、最期は妻と長男、河村さんが見守る中「眠るように息を引き取りました」。復活をあきらめなかった阿久さんの最後の言葉は、前日に交わした「ものをいっぱい食べて体力をつけよう。目が悪くなったので今週あたり(新しい)メガネも作ろうか」だった。

 関係者によると、渚ようこのニューアルバム「novella d’amore」(8月22日)のために病床で書いた「KABUKU」「どうせ天国へ行ったって」が遺作。河村さんは「決して弱音を吐かず、『時代おくれ』の歌詞のように、やせ我慢と男の恥じらいを美学とした立派な闘いだった」と振り返る。

 阿久さんは広告代理店勤務を経て67年に作詞家デビュー。山本リンダの「どうにもとまらない」、都はるみの「北の宿から」沢田研二の「勝手にしやがれ」など、ジャンルを超えた国民的ヒットを連発。自ら審査員を務めたオーディション番組「スター誕生!」でピンク・レディーや山口百恵らを発掘し、アイドル黄金期を作り上げた。作詞した作品は5000曲を超え、シングル作品の総売り上げは国内トップの6818万枚にも上る。

 作家としても自身の体験をもとにした「瀬戸内少年野球団」が直木賞候補となり、映画化もされて話題。99年に紫綬褒章を受章した。

 密葬は近親者で行い、後日「送る会」を行う。喪主は妻の深田雄子(ふかだ・ゆうこ)さん。

◆阿久 悠(あく・ゆう)
本名・深田公之(ふかだ・ひろゆき)ペンネームの由来は「悪友」から。1937年2月7日、兵庫・淡路島生まれ。兵庫県立洲本高校卒業後、明大文学部入学、同大学院修士課程修了。卒業後広告代理店勤務を経て放送作家・作詞家に。膨大なヒット曲を世に送り出す。家族は夫人と長男。

◆尿管がん 
腎臓で作られた尿がぼうこうに流れるときに通る尿管の移行上皮と呼ばれる粘膜から発生するがん。女性より男性の方が2倍以上罹患(りかん)率が高く、50代から70代に多い。血尿や腰、背中の痛みを伴い、治療も外科療法が主流。

◆レコード大賞最多5作品で受賞
阿久さんは40年余りの作家生活で日本レコード大賞(日本作曲家協会主催)を5作品で受賞している。1971年に尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(作曲・筒美京平)で初受賞。76年からは都はるみの「北の宿から」(作曲・小林亜星)、77年に沢田研二「勝手にしやがれ」(作曲・大野克夫)、78年にピンク・レディー「UFO」(作曲・都倉俊一)で前人未到の3連覇を記録。
さらに、80年に八代亜紀の「雨の慕情」(作曲・浜圭介)でも受賞。48回の歴史を誇るレコ大の中で5作品で大賞受賞と、最多の作品記録を作っている。

ジュリー 涙の阿久悠さん追悼歌
2007年8月5日(日) スポーツニッポン


腕に喪章を着け、阿久悠さん作詞の「時の過ぎゆくままに」で涙を浮かべる沢田研二(撮影・三島英忠)

 歌手の沢田研二(59)が4日夜、天国に旅立った恩師・阿久悠さんに熱唱をささげた。東京・渋谷のC.C.Lemonホールからスタートさせた全国ツアー初日。左腕に喪章をつけてステージに登場し、尿管がんのため1日に70歳で亡くなった阿久さん作詞の「時の過ぎゆくままに」を1曲目に歌い、追悼した。静岡県伊東市の斎場では阿久さんの葬儀・告別式がしめやかに営まれた。

 阿久さんが初めて沢田に提供した「時の過ぎゆくままに」。急きょこの曲を曲目リストに加え、追悼歌としてささげた。

 沢田はステージ袖から登場。「みんなと一緒にご冥福をお祈りしたいと思います。ご起立願います。ご唱和願います」と一礼。スポットライトを浴びながら直立不動で歌った。2000人の観客による合唱に、歌の途中で涙がこらえきれず声がかすれた。歌い終わると天を仰ぎ、深々と頭を下げた。拍手がしばらく鳴りやまず、すすり泣くファンの姿も見られた。

 「時の…」は自身が主演したTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)の主題歌。その時代の若者の倦怠(けんたい)感、喪失感をリアルに描いた斬新な歌だった。

 当時No・1アイドルだった沢田が歌うことに周囲から反対の声も上がったが、その声を押し切ったのが阿久さんと同ドラマのプロデューサーだった故久世光彦さん。結果的に同曲は売り上げ100万枚に迫るヒットを記録し、その後の日本歌謡界の新たな方向性を示すきっかけにもなった。沢田は「久世さんも阿久さんも亡くなって…。みんな元気でいてくれよ。健康が一番よ」とファンに向けてしんみりと話した。

 沢田は「時の…」の大ヒットを機に「勝手にしやがれ」「サムライ」「カサブランカ・ダンディ」など、数多くの阿久作品を歌ってきた。

 中でもこの日最初に歌った「時の過ぎゆくままに」に込められた阿久さんからのメッセージ。「歌詞に阿久さん語録が並んでいるような気がして、年がいもなく上ずってしまった。最近、涙もろくてね」と照れながら涙の理由をを口にした。