がんと闘う(14)

井沢八郎さん上野駅から旅立ち
            2007年1 月19日(金)06:13 スポーツニッポン

JR上野駅前に建立されたヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑を前に同曲を熱唱する井沢八郎さん
(平成15年7月)

集団就職者の愛唱歌だった「あゝ上野駅」などのヒット曲で知られる歌手の井沢八郎(いざわ・はちろう、本名工藤金一=くどう・きんいち)さんが17日午後11時18分、食道がんのため、ゆかりの地である東京・上野の病院で死去した。69歳。青森県弘前市出身。娘で女優の工藤夕貴にとっては、この日が36回目の誕生日だった。工藤は18日、自身のホームページで「父は私の誕生日を祝うために頑張ってくれていたのかもしれない。パパ、ありがとう」と感謝の言葉を記した。

 井沢さんは、今月4日に転院したばかりの上野駅そばの病院で、美代子夫人(45)にみとられ息を引き取った。中学を卒業し、歌手を目指して上京した井沢少年を迎えた玄関、そして代表曲「あゝ上野駅」(64年)の歌碑が建つ運命の場所からの静かな旅立ちだ。上野は俺らの心の駅だ…あの日ここから始まった――。高度成長期、「金の卵」と呼ばれた若者たちの郷愁を誘った関口義明氏の歌詞は、そのまま井沢さん自身にも向けられた応援歌でもあった。

 八王子市内の自宅で対応した美代子夫人によると、一昨年9月に食道がんが見つかり、翌10月17日に全摘出手術を受けた。06年5月にリンパへの転移が確認され、入退院を繰り返してきた。復帰を信じ、「髪の毛が抜け落ちたら嫌」と、抗がん剤の投与は避けていたという。

 3年前には、葬式のことで遺言も残していた。「ショパンのピアノ協奏曲1番を流し、お気に入りのステージ衣装を着た写真を遺影にしてほしいというものでした。白いジャケットに私が施した刺しゅう付きの黒いシャツ。発病前の元気な時だったので驚いた」と夫人は振り返る。永遠の眠りについた井沢さんは、この衣装を着て八王子市の自宅に安置された。最後の仕事は昨年6月に福井県で開いた復帰公演だった。

 上京した井沢さんの面倒を見た恩師で作曲家の大沢浄二氏(81)は17日夜、亡くなる数時間前に見舞った。井沢さんは昨年11月に福生市の病院に入院し「見舞いに行きやすいからと、娘の夕貴ちゃんたちが都心に近い病院への転院を薦めても最初は拒否していた。前の病院の院長が上野を紹介したら“うん上野だったら”と転院した」と大沢氏。「その際、私に“どうもありがとうございました”と別れ言葉のように言うので、怒ると、ニッコリ笑っていた。覚悟していたのかもしれない」と話した。

愛娘・工藤夕貴ショック…「あゝ上野駅」井沢八郎さん死去
            2007年1 月19日(金)03:57 サンケイスポーツ


 女優、工藤夕貴(36)の父で、「あゝ上野駅」の大ヒットで知られる歌手、井沢八郎=本名・工藤金一=さんが17日午後11時18分、食道がんのため東京都台東区の永寿総合病院で死去した。69歳だった。平成17年秋に食道がんが発見され、食道の全摘出手術を行うなど1年3カ月にわたり闘病生活を送った井沢さん。離婚や隠し子騒動など波乱万丈の人生だったが、亡くなった17日は奇しくも夕貴の誕生日。愛娘へ「おめでとう」と“最期の言葉”をかけ、天国へと旅立った。

 またひとり、昭和の名歌手が永遠の眠りについた。

 井沢さんの実妹、蝦名(えびな)愛さん(64)らによると、井沢さんは平成17年9月に胸焼けがしたため検査を受けたところ、食道がんが発見された。同年10月17日に声帯だけを残して食道を全摘出する手術を受け同11月に退院。しかし、昨年5月にリンパ節にがんが転移しているのが見つかり、通院しながら放射線治療などで完治に向け励んでいたが、昨年11月に再入院した。

 妻の美代子さん(45)が付きっきりで看病にあたり、娘の夕貴もちょくちょく病院を訪れた。夕貴は自身の誕生日だった17日午前中に病院を訪れた際、普段ほとんど話ができない父から不明瞭ながらも「おめでとう」と2回も祝福され、感激していたという。

 が、喜びもつかの間。同日夜になって容体が急変。夕貴は仕事のため、いったん病院を離れ、急いで戻ったものの、15~20分の差で臨終に間に合わなかった。最期は妻の美代子さん、愛さん、愛さんの夫と3人に看取られて旅立った。安らかで穏やかな顔だったという。遺体は東京都八王子市内の自宅兼事務所に搬送され、夕貴は「(自身の)自宅で待機中」(所属事務所)という。

 井沢さんは昭和38年に「男船」でデビュー。翌39年、集団就職した少年たちを題材にした「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一)が大ヒットし、人気歌手の仲間入りを果たした。のびやかで張りのある歌声が魅力で、清酒のCMソングなどでも知られた。

 一方、私生活は波乱続きだった。昭和60年に16歳少女との淫行騒動、62年には隠し子が発覚。別居状態が続いていた夕貴の母で元妻の納紀子さんとは、夕貴が高校を卒業した平成元年に離婚した。離婚当時、夕貴は「私にとってはパパ、ママは一番愛した人。これからも永遠に愛していく人です」と明るく話していたが、インタビューで家族の話になると、急にしんみりし、離婚を悲しむ素顔をのぞかせた。

 夕貴は昭和59年の「逆噴射家族」で映画デビュー。「親の七光り」と言われるのを嫌ってか、井沢さんの娘ということを当時オープンにしていなかったが、やがて明るみに出て注目を集めた。それ以降、次々と発覚する父親のスキャンダルは、当時アイドルタレントとして売り出し中の夕貴にダメージを与えた。

 が、夕貴は心の傷を乗り越え成長。ハリウッド映画「ヒマラヤ杉に降る雪」(平成12年)のヒロインを熱演し国際派女優として脚光を浴びた。

 井沢さんが臨終の前に夕貴と交わした“父娘の会話”は、詫びと今後の活躍を願う気持ちの表れだったのかもしれない。井沢さんは天国で娘の活躍を見守り続けることだろう。