がんと闘う(2) 無念“降板”岡田真澄さん死去…70歳、食道がん 昭和を代表する二枚目スターで、近年はバラエティー番組でも活躍していた俳優の岡田真澄さんが29日午前4時5分、食道がんのため都内の病院で亡くなった。70歳だった。岡田さんは昨年6月に食道がんが見つかり、9時間にも及ぶ大手術を受けた。食道を全摘出した手術の結果、一時は仕事復帰も果たしたが、同じ食道にがんが再発。必死の治療も実らず帰らぬ人になった。 昭和の日本を代表する二枚目俳優がまた一人、静かに天国に旅立った。
岡田さんは昨年5月の定期検診でのどぼとけの上、声帯付近の食道にがんが見つかり、6月に手術。9時間、計79針を縫う大手術で食道を全摘出した。3か月後には復帰会見を開き回復ぶりをアピールしていた。 しかし、その直後にリンパ節への転移が判明。10月には、出演予定だった今年1月の舞台「グランドホテル」を降板。所属事務所によると、本人は転移についても認識していたが、今まで通り周囲にも優しく振る舞っていたという。 日本人の父親とデンマーク人の母親を持ち、フランス・ニースに生まれた岡田さんは、テレビやラジオで活躍していた実兄のE・H・エリックさん(故人)の後を追うように1952年、日劇ミュージカルホールの初舞台で芸能界に飛び込んだ。晩年のスターリンにそっくりな彫りの深い顔立ちで人気を集め、100本以上の映画に出演。 その後はミュージカルに活動の中心を移していたが、フジテレビ系バラエティー「とんねるずのみなさんのおかげです」で演じた「ファンファン大佐」で若者層にも再びブレーク。最近は「サルヂエ」の司会者などでも活躍していた。 プライベートでは二枚目らしいプレーボーイぶりで世間をあっと言わせた。25歳で事実婚したものの、岡田の女性関係を理由に1年で“離婚”。その翌年には婚約を発表したが、2年間の交際の後に解消した。72年に結婚した女優・藤田みどりさんとは3人の男の子をもうけたが、94年に離婚。翌年に26歳年の現夫人・恵子さんとの電撃再婚を発表して、驚かせた。 最晩年は恵子さんとの間に誕生したまな娘をことのほかかわいがっていた。一度は妊娠5か月で流産という悲しい経験を経て、63歳の時に授かっただけに、岡田さんも目に入れても痛くないほどのかわいがりよう。最近の口癖は、「彼女が成人するまでは生きる」だったという。
[ 5月31日14時11分 更新 ] 岡田真澄さんを涙で見送り
5月29日に食道がんのため70歳で亡くなった俳優・岡田真澄さんの「お別れの会」が2日、東京・港区の青山葬儀所で行われ、俳優・宝田明(72)ら関係者・ファン約800人が参列した。“ファンファン”の愛称で親しまれた岡田さんの遺骨は恵子夫人(44)、愛娘の朋峰(ともみ)ちゃん(7つ)に抱かれ、ファンからの要請というメッセージ付きの青・白200個のバルーンに見送られて式場を後にした。
岡田さんが天国から微笑んでいるような式となったが、残された人の悲しみは深かった。恵子夫人は喪主あいさつで「誰に対しても、どこに行っても同じ人だったということを知りました。一度も苦しいとか辛いとか、聞いたことがありません。『大丈夫だよ』といつも笑っていたから泣くこともできません」と言いながら、ただ涙した。東宝26期ニューフェース同期生で友人代表のあいさつをした宝田も、無名時代に25円のラーメンを分け合い、将来の成功を誓い合ったエピソードなどを涙ながらに紹介した。 岡田真澄:バラを手に天国へ 最後までダンディーに
29日に食道がんのため亡くなった俳優・岡田真澄さん(享年70)の葬儀が30日、東京・港区の安藤記念教会で営まれた。棺の中の岡田さんはタキシード姿で、手には3本の赤いバラ。バラの花を入れることや、葬儀でかける賛美歌などの音楽は自身が生前に決めていた。オシャレな岡田さんらしく、愛用のくしなども棺に納められた。 めいのタレント・岡田美里(44)は、葬儀後に取材に応じ「いつも優しく包んでくれる自慢の叔父でした。自分がもう元に戻れないということが分かっていたけれど、すごく冷静で神様に迎えられる覚悟をしていました」と語った。 美里によると、岡田さんは亡くなる前日の日曜日まで元気で、病院のホールで7歳になる愛娘・朋峰(ともみ)ちゃんの弾くピアノを聴き「今度パパは神様と一緒にピアノを弾くからね」と語っていたという。その後、容体が急変し意識がなくなった。 美里は「朋峰ちゃんはお別れのときは泣きっぱなしで…。かみしめるような泣き方が…。小さいのにね。これからは私たちも一緒に育ててあげたい」と声を何度も詰まらせた。お別れの会が6月2日午前10時から港区南青山2の33の20の青山葬儀所=(電)03(3401)3653=で。喪主は妻・恵子(けいこ)さん。 (スポーツニッポン 2006年5月31日) | |||||