【絵門ゆう子「がんとゆっくり日記」】
薬に耐性・・・玉手箱が開いた
2006年03月30日
この『ゆっくり日記』には、4年前乳がんを全身転移させ、聖路加国際病院の心ある治療によって究極の症状から回復させてもらってからの治療経過なども折々書いてきている。ただ、がんと関係ない方たちも読む新聞という媒体にあまり個人的なことを書くのもどうかと思い、いつもそれなりにオブラートに包んできた。だが、今回からは報告として、今の状態に至るまでをストレートに書いてみようと思う。
聖路加を退院してから最初の1年、私は、手足を除いたすべての骨、肝臓5か所、肺など「全身どこにあってもおかしくない」ほど広がったがん細胞を、自分のがん細胞に感受性の高いホルモンをブロックする薬で抑えてきた。これ以降、私のがんに反応しやすい血液検査の数値(マーカー)だけを手立てにがんの進行状況を把握してきた。
1年後、そのマーカーが上がり出し、ホルモンの薬に耐性ができたため、これ以上使っても無意味なことがわかった。そこで3年前から、タキソールという新生細胞の増殖を抑える抗がん剤を週1回、月3回点滴するという通院治療を始めた。これは現在、私のように全身転移、再発転移した乳がん患者が普通に行っている治療法。この薬が承認されたことで、どれほど多くの患者が通院治療に切り替え、QOL(生活の質)を保ちながら生活できるようになったかしれない。
私の場合、この薬が2年以上も良く効いた。その間元気な人たち以上に仕事も生活もでき、北海道から九州まで講演に飛び歩き、朗読コンサートも回を重ね、連載をいくつも抱え、新潮社からの2作目『がんでも私は不思議に元気』も出版でき、私の人生で最高に充実して仕事に取り組んだ日々を送ることができた。
振り返ると、あの日々は、「竜宮城に行っていた浦島太郎だったなあ」と思う。
半年前、マーカーは、そのタキソールに耐性ができ始めたことを示した。主治医の中村先生からは、また別のタイプの抗がん剤に切り替え「タキソールにも負けずに生き残ったがん細胞を抑えていこう」という提案があった。
「そうか、そういうことだったんだ……」と思った。考えたくなかった。この薬を使って心を明るく保つことでこの元気が永遠に続く、そのうちがんとの付き合いもなくなる日がくるはず、と信じていたい私がいた。でも、そうは問屋が卸さなかった。
我が身を見た。現実という海辺に戻り、玉手箱を開けた私は、白髪の老人である浦島太郎に戻っていた。
鏡を見る。考えた。「提案された抗がん剤によって、私はまた竜宮城に連れて行ってもらえるかもしれない……」
しかし、中村先生は言った。「今度の抗がん剤はそんなに長く使えず、効いて1年だと思います」。その後は?
「今はまだ承認が取れていない薬の治験に入れる可能性も出てきます」。その後は?
「新しいホルモンの薬なども開発されていくはずだし、とにかく今はちょっと辛(つら)い副作用を我慢して薬を使って、いろいろなスケジュールをこなす時間を作ろうよ」
先生は前向きに前向きに、私が治療に向かえるように励ましてくれた。しかし、私の心の中には素朴な叫び声があった。
「『1年後には別れることになるけれど結婚しよう』というプロポーズに乗れるだろうか?」