過去世、現世、来世へと続く「三世の生命」
私たちの生命は「死んだら終わりではなさそうだ」ということが解ってきた。ある科学者がそのことを論文に書いて大反響を呼んだそうだ。その科学者が、なぜ、そうしたことに気がついたかというと、ある日本の四歳になったばかりの子供が、流暢な英語を喋りだし、「自分は過去にアメリカに住んでいて、もう一回、生きることになって日本に生まれてきた」と話だしたというのです。
しかも、その子供は、母親のおなかの中にいた時のことから、産道をクルクル回りながら生まれてきたことまで克明に語ったというのです。それで、どうやら、この子供は、生まれる前の記憶をもっているらしい、ということになったのです。
また、催眠術のなかに、”退行催眠(たいこうさいみん)”というものがあって、現在の表層意識の中で忘れていることでも、一旦、見たり聞いたりしたことは全て意識の中に記憶されているので、催眠術をかけて時間を逆行させていくと、5年前のこと、10年前のこと、さらに2歳、1歳の頃のことまで、記憶を引き出すことか出来る、というものです。
前(さき)の科学者が、この退行催眠の事例について調べていったところ、被験者の記憶を生まれる前まで溯らせ、過去世の記憶を引き出すことに成功したケースが、諸外国には何千例とあることが、わかったということです。
つまり、退行催眠をかけられた被験者が、自分は今回生まれてくる前に、どこどこの国に、どういう名前で生きていて、どのように死んだ、ということを語った、というわけです。しかも、実際にその国に、そのような人物が、本当に住んでいたことがあるかを調べたところ、そのうちの相当数が裏付けられた、というのです。
以上のことから、その科学者は、いわゆる仏法でいう「輪廻転生(りんねてんしょう)」が本当にあるのではないか、これを科学的に証明できないかと、研究を始めたということです。
現代の科学で「質量不変の法則」というものがあります。これは、宇宙空間に存在しているものは、たとえ形が違っても、その絶対的な質量は変わらない、それを構成している分子の数は不変である、ということです。
例えば、紙に火をつけて燃やしますと、その紙は灰になって、紙という形での存在はなくなります。では「無」になってしまったのかといえば、そうではありません。紙を構成していた分子が空気中の酸素と結合して(これを燃焼といいます)、紙は塵芥へと変わりましたが、紙を構成していた分子それ自体は、なくなるわけでも、減るわけでもありません。酸素と化合して、別の形になっただけです。
これを「質量不変の法則」というのです。
宇宙空間の全ての存在が、形は変わっても、なくなってしまうということはない、質量不変の法則で永遠に存在している-といいながら、ただひとつ生命だけは、死ねばなくなってしまう、というのでは整合性のない、おかしな話ではありませんか。
仏法では、この「質量不変の法則」と同じように、私たちの生命も、生から死へ、死からまた生へと、形を変えながら、永遠に存在している、と説くのです。
生命が、前世、今世、来世の三世にわたって連続している、ということについて、仏法の道理上から見てみると…。
まず、”前世がある”ということですが、我々は、生まれながらにして、皆、差別をもってこの世に誕生しています。
例えば大雑把に言っても、裕福な家に生まれる人もいれば、貧乏な家に生まれる人もいる。また、健康な身体で生まれる人もいれば、障害をもって生まれてくる人もいる、あるいは生まれながらにして気性の穏やかな人もいれば、気性の激しい人もいる。このように、人それぞれが異なった境遇に誕生しているのであり、何から何まで全く同じ、という人は一人としていないはずです。
では何故、生まれながらにして、こういう差別があるのでしょうか-。
およそ世の中の物事には、全て、原因と結果があります。原因があるから結果がでるのであり、原因なくして結果が出てくる、などということは一つとしてありません。そして、全ての物事に原因と結果を認めることを”道理”といい”筋道”というのです。
であれば、生まれながらにして障害を持っていたとして、あるいは貧困の家に生まれたとしても、あるいはけんかの絶えない両親のもとに生まれたとしても、それらは一つの結果であって、その以前に、それをもたらす原因があったはずです。
そのように考えてみると、これはやはり、前世(過去世)というものがあって、そこにおける我々の生き方なり行いが原因となって、生まれながらにして、こうした結果を受けた、と言わざるをえません。
次に”後生(ごしょう)があるか否か”ということですが、仏教では、生前に謗法(ほうぼう)を犯せば、これが原因となって死んでから地獄に行き、逆に、正しい仏法を修行して功徳を積めば、不幸の業因(ごういん)を消滅させ、今生で幸福になれるばかりか、それを死んだ後まで持って行ける-つまり成仏の境涯(きょうがい)といって、死後も安息して幸福感を味わっていくことができる、と説かれています。
そして、その証拠として、亡くなった人の遺体の上に、地獄に落ちた人は地獄の相、成仏した場合は成仏の相という、厳然たる違いが現れる、と示されているのです。
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仏法の教えの一部を掲載致しましたが、実は私たちは、本能的にそのことを知っている。白畑教授は講演の中で「倫理」ということを仰います。人はなぜ「倫理感」をもって生きていくのかというと、実は死後の世界での「罰」を本能的に知っているから…、と仰います。どんな生き方をしても一生は一生。面白おかしく自由勝手にやりたいほうだいの人生を送ってもよさそうなものなのに、道徳とか倫理とか心を規制して生きていく。
白畑教授は、このことは、人のこの世のにおける生き方によって、死後の世界や来世に影響があると、本能で知っているから、と言われます。水のことについての講演ですが、宇宙の誕生から人の死後についての世界まで含めた中で「水」についてお話されます。
私が今回、こういう話題を取り上げたのは、電解還元水を巡る世界で、この水で人の命を救えるかもしれないと真剣に研究している人々と、この研究を批判している人々がいることについて、いろいろと考えてみたのです。批判している人々は、心に誓って「倫理観を以て」批判しているのかという疑問を私は抱くからです。
例えば代替医療の世界で、非常に効果の高いものが見つかったとしても、医師は、薬剤を使わない医学って何だ!というところに行き着いて、結局それを本格的に医療に取り入れないという例の話を聞きました。
ところで、退行催眠(たいこうさいみん)によって過去世を知ることはできても、過去世から現世に至る間の「死後の世界」については記憶を呼び戻すことができません。
あるいは「光」として語られることがあるそうです。
仏法では、死後の生命には、全身を焼き尽くされるような苦しみで悶絶している地獄もあれば、成仏の境涯で安息している生命もある、と説いているそうです。そして、それぞれのどちらの世界へ行ったのかが死相に現れるといわれいます。
そして恐ろしい地獄の苦しみは記憶から消されてしまっている。なぜなら人間には、嫌なことは忘れたいという自己防衛本能があり、その、自己防衛本能が働いて過去の地獄の苦しみを忘れ去ってしまう、と考えられているそうです。他にも理由はあるのですが、省略しますが、要は記憶から消されているために「空白」=「光」、死後の世界は「光」と語られると仏法では説いています。
つまり、私たちは人間として、死後に自分が進む道が「成仏」なのか「無限地獄」なのかをかけて、電解還元水について語っているのか、ということを「批判」している人々に問いたいのです。
電解還元水は、薬事法の規制があります。私たちは、薬事法を完全に守るとすると、電解還元水について「見ざる、言わざる、聞かざる」という行動しかできません。これでは電解還元水について一般の方々に情報を伝えることが出来ません。
でも、これも「人としての道」、仏法に照らし合わせて正しいことなのでしょうか?
私自身、決して、この世に生きて「謗法(ほうぼう)」を犯していない生き方をしているかといえば、やはり「無限地獄」行きが妥当かもしれませんが、こと「電解還元水」については天地天命に誓って「成仏」の道を歩んでいると確信しています。
そして、このような素晴らしい仕事に出会えたのも前世からの因縁があったと思うのです。だからこそ「批判」している人々の良心に問いたいのです。
あなた方は「成仏」するということにかけて「電解還元水」について語っているのですか?