故仰木監督の「お別れ会」開かれる

マウンド近くに飾られた故・仰木氏の写真

 昨年12月15日に呼吸不全のため70歳で死去した、前プロ野球オリックス監督仰木彬さんの「お別れの会」が21日、神戸市のスカイマークスタジアムで行われた。

 午前10時半から小泉隆司球団社長、中村勝広監督をはじめ清原和博、中村紀洋両選手ら球団関係者約90人がグラウンドで黙とう。ホームプレート付近に設けられた献花台に次々と花を手向け、マウンド付近の祭壇に向かって手を合わせた。仰木さんの定位置だった一塁側ベンチ内のパイプいすには、白い花束が置かれ、壁にはユニホームが飾られた。

 仰木さんの熱心な誘いに応えてオリックスに入団した清原選手は「新しいところでスタートを切るけど、何か温かいものに包まれている感じ。精いっぱい自分の力を出し尽くしたい」と話した。

 その後も宮内義彦オーナー、教え子の野茂英雄投手ら多くの関係者が訪れた。また故郷の福岡県中間市でも「お別れの会」が行われ、多くの人が故人をしのんだ。

[2006/1/21/14:21]

写真=一塁側ベンチ内には前オリックス監督仰木彬さんのユニホームが飾られた(共同)

=2006.1.21.nikkansports.com=

     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


仰木彬氏が死去-野茂、イチローを育成

プロ野球の近鉄、オリックスの監督を務めて3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬氏=写真=が15日、死去した。70歳。福岡県出身。

福岡・東筑高から1954年に西鉄に入団し、1年目から二塁手でレギュラーを獲得。中西太氏、稲尾和久氏らと西鉄の黄金時代を築いた。

70年から18年間の近鉄コーチを経て88年に近鉄監督に就任。相手の意表を突く采配(さいはい)は「仰木マジック」と呼ばれ、前年最下位のチームを最終戦まで優勝争いを演じるチームに引き上げた。翌年にはリーグ優勝を果たした。

94年から8年間はオリックス監督。「イチロー」の名付け親として知られ、二軍からイチローを一番打者に抜てき、前人未到の210安打を達成させた。阪神大震災が起きた95年から2連覇、96年には日本一に輝き、被災に沈む神戸市民を勇気づけた。

2004年に野球殿堂入り。翌年に近鉄と統合されたオリックスの監督に就任したが、体調不安を理由に1シーズン限りで退いた。監督としての通算成績は988勝、815敗、53分け。

イチローを始め、野茂英雄投手、田口壮外野手など多くの大リーガーを育て、飾らない人柄は多くの野球ファンに愛された。

★奥深かった仰木マジック-不良っぽさも魅力だった

仰木彬さんをズバリと射抜く表現を探したが見つからない。正体ここにあり、と指摘させない術を当人が使っていたような気もするのだ。

あの多様だった選手起用は「仰木マジック」と形容され、情を排した投手リレーにはチーム内に反発の声もあがった。近鉄でもオリックスでも投手陣から反抗の火の手が見えつつも優勝した。

これは師と仰ぎ、かつて西鉄などを率いて知将と評された三原脩監督の教えを実践したものだろう。絶えず綿密な予備知識を持ち、相手の状況を把握して戦略に反映させていた。洞察力といえば簡単だが、それを味方にも察知されずに成功を積み重ねれば神秘性が生じる。仰木さんの術には計算された、そんな深さがあったのではないか。

自由競争だったころの西鉄入団だった。勧誘にきた中日と南海は契約金が100万円。西鉄には「僕に任せておきなさい」という三原監督にポンと肩をたたかれ、これで陥落した。契約金と年俸を合わせても100万円に満たなかった。その不足分は野球殿堂入りにまで発展した監督の業績につながったのだから、三原監督の肩たたきに感謝をしていいだろう。

メジャーで活躍する教え子に目を細めていた仰木氏。評論家時代にはドジャースのキャンプ地ベロビーチを訪ね、野茂(右)を激励


シアトルではイチロー(左)と野球談義に花を咲かせた

鈴木一朗選手を「イチロー」と命名して世に送り出している。プロ球界の片仮名ブームを誘引したばかりか、イチロー選手の将来性を看破して起用した眼力もすごい。

酒を飲めば踊りもあり、妙齢の女性がいればはしゃぎもする。紳士のようで堅物ではなく、ちょっぴりのぞく不良性も大きな魅力。不思議な男ではあった。

平成8年の日本シリーズ開幕直前、巨人・長嶋監督と握手を交わす仰木氏。ミスターも“盟友”の突然の死にショックを隠せなかった


◆巨人・長嶋茂雄元監督の話

「突然の訃報(ふほう)に驚いています。今年も、監督として元気にご活躍していたのに…信じられない気持ちでいっぱいです。現役として、監督として、日本シリーズで戦ったのが、仰木さんとの思い出です。同じ歳ということで、気になる存在の一人でした。今は、心からご冥福をお祈りします」


◆中西太氏の話

「10日ほど前に電話で話をしたのが最後になった。来年もキャンプへ来て、選手を教えてやってくれといっていた。ずっとチームのことを考えていたんだな。監督としては、選手を売り出すのが上手だったし、よく頑張った。大阪ドームにお客さんを集めたいと言い続けていたよ。寂しいかぎりだ」


◆梨田昌孝氏の話

「いろいろなことを勉強させていただいた。三塁ベースコーチのサインの出し方とか、弱いチームを戦力があるように見せたり、相手の心理の裏を突くことにたけていた。昨年、ヘッドコーチに誘われて、手助けできなかったのが心残りだ」


◆横浜・牛島和彦監督の話

「えっという感じです。(1988年の)「10・19」では敵味方として、パ・リーグが熱く燃えた日。そういうこともあって一緒に戦ってきたと思っている。ご冥福をお祈りします」


◆西武・伊東勤監督の話

「監督になりたてのころ、大阪ドームの監督室でいろいろ教えていただいた。一緒に戦った今季、時々つらそうにしていたので心配していました」


◆横浜・阿波野秀幸投手コーチの話

「体が悪いのは知っていました。心配はしていたのですが、本当に残念です。(近鉄時代に)球史に残る監督に教えてもらい、いい思い出。ゆっくり休んでください」


◆元西鉄ライオンズ投手・池永正明さんの話

「突然でびっくりしています。仲間と涙を流しています。仰木さんには特別かわいがってもらった思い出がたくさんあります。ご冥福をお祈りいたします」

=2005.12.15.sansupo.com=