挑戦・男たちの詩(63)

白血病と闘いまもなく10年
自転車レーサーへ「パン焼いて待っていたよ」

秩父の山々を仰ぐ埼玉県越生町境瀬の田園地帯に、木造平屋の小さなパン屋がぽつんと立つ。
この店の名を冠した自転車レース「ツール・ド・シロクマ」が、今年も無事に開かれた。
先月6日(11月)の日曜日。山あいの約20キロのコースを走り、ゴールの「パン工房シロクマ」にたどり着いた参加者を、店主の池田達也さん(47)が笑顔で迎えた。
「おいしいパンをどっさり焼いて待ってたよ」。
傍らで妻のはつ代さん(36)も笑っている。

「ツール・ド・シロクマ」の出場者を迎える池田さん
(左写真中央、2005年11月6日)。
2002年には自転車のお客さんのために、
店舗を増築して休憩コーナーを設けた。
池田さんは毎日、約40種類、
計200個ほどのパンを焼いている。

東京のパン屋に10年勤め、31歳で独立した。客が3人入れば満員になる狭い店だが、夫婦でパンを焼く暮らしは幸せだった。
健康診断で血液の異常が見つかり、慢性骨髄性白血病と診断されたのは38歳の時。
「5年後に生存している確率は50%です」。医師から告げられると、はつ代さんは泣き崩れた
病気の進行を抑える注射を3年間打った後、根治の可能性がある骨髄移植の手術を41歳の春に受けた。
入院生活と自宅療養を経て、再び店に立ったのは、その年の冬。だが、すぐに池田さんは、店の復帰を甘く見ていたと思い知る。
突然、猛烈な吐き気に襲われる。40度の熱が急に出て、体の震えが止まらない。
骨髄移植を受けた患者は、その後も長期間、免疫力の低下などに伴う体調不良で苦しむ場合が少なくない。池田さんもそうだ。
色白で体全体がふっくらしていたことから「シロクマ」というあだ名がつき、店名をそこからとった。が、76キロの体重は55キロに減り、別人のようになった。
店は臨時休業を繰り返した。「いつまでパンが焼けるかな」。妻に弱音を吐くようになった。店がつぶれるかもしれないね」。そう漏らしたこともある。

1年近く過ぎたころだろうか。自転車レース用のぴっちりしたウエアを着た若者が、頻繁に訪れるようになった。不思議に思っていたところ、「自転車の雑誌でお店が紹介されていましたよ」と、客の一人が教えてくれた。
その雑誌「サイクルスポーツ」の2000年11月号には、店の写真が載っていて、こんな文が添えられていた。

<店のたたずまいとは裏腹のメチャうまさ!!>
<ボクは”クマサン・サブレ”に病みつき>

筆者の橋川健さん(35)は、国内の主要大会を何度も制している自転車ロードレース界のトップ選手。だが、池田さんは名前すら知らず、あとで経歴を知って驚いた。
自転車レースは1日に200キロ以上を走る。練習中に一度立ち寄り、池田さんのパンがすっかり気に入った橋川さんは「シロクマ」を目標にべダルをこぐようになっていたのだ。

池田さんの方から思い切って声をかけたのがきっかけに、橋川さんの来店回数はさらに増えた。1日2回来て、同じパンを買っていくこともあった。
「毎日で飽きませんか」。
そう問いかけたときの橋川さんの返事を、池田さんは忘れない。
「ここのパンは世界一ですからね。ヨーロッパにも、これはどおいしいパンはありませんよ」
「世界一」。その言葉を何度も心の中で唱えた。
高熱が出た翌日も店を開けるようになったのは、それからだ。心配する妻を制してパンを焼き、解熱剤を飲んで、橋川さんを待つ。
店の評判は口コミで広がり、サイクリング中のカップルや親子連れも来るようになった。
店の前に自転車が止まると胸が高鳴る。そんな自分に気づいてから、体調が急変する回数が減った。

常連客たちが企画して、01年8月、初めて「ツール・ド・シロクマ」が開かれた。シロクマのパンを愛すること。それだけが参加資格のこの大会に、激しい運動のできない池田さんは、出場者にパンを振る舞うという形で参加することになった。
5回目となった今年のレース。パンをほおばる約30人に、池田さんはこうあいさつした。
「来年も『ツール・ド・シロクマ』で会えることを楽しみにしています」。
この大会を迎える度に、1年間無事に過ごせたことを実感する。
体調の急変こそ減ったが、高熱や吐き気が繰り返し襲ってくる生活に今も変わりはない。
この7月には敗血症で2週間入院した。
病気になる前に戻れたら、そう考え続けてきた。
だが、今は違う。自転車で来るお客さんのために、今日は昨日よりおいしく焼く。その思いだけで、朝5時から妻と調理場に入る。
「5年後の生存率50%」と宣告されてから、来年(2006年)で10年になる。

(河村武志)
=2005年12月4日・読売新聞=