なぜ、そんなに死に急ぐ(6)

闘病10ヵ月…白血病死
          本田美奈子.さん 38歳早すぎる死。悲しすぎる。

本田美奈子.写真
本田美奈子.写真

本田美奈子.さんが38歳の若さで亡くなった。まだ人生はこれからであり,彼女ほどの才能があれば、この先さまざまな可能性があったであろうことを考えれば、夢半ばにして逝った無念さは人事ではない。
私は健康関連の仕事をして12年。健康はただ成り行きに生きていて保てるものではないことを感じている。 
いろいろな健康に良いもが世の中にあふれている。電解還元水もそのひとつであろう。水は誰でも口にする。料理をするにも水がいる。健康食品を飲むのにも水が必要だろう。
だとしたら、健康に良い水を生活に取り入れることも大切なことかもしれない。
本田さんは、職業柄多忙であったと推測されます。健康管理にも気をつけられていた思いますが、思うようには多忙な中ではなかなか思うようにはいかなかったのではないかと思われます。
ニュースを聞いて私は、せめて、水だけでもで替えていただいていたらと思いました。

それにしても、皆なぜそんなに死に急ぐのか。ただただ無念でなりません。


「殺意のバカンス」で85年にデビュー…大ヒットした「1986年のマリリン」 
92年からはミュージカル「ミス・サイゴン」など舞台にも… 
ファンは忘れない!あの歌声 

本田美奈子.写真「1986年のマリリン」などのヒットで知られ、ミュージカル女優としても活躍した歌手の本田美奈子.さん(本名・工藤美奈子)さんが6日午前4時38分、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死亡した。38歳。東京都出身。デビュー20周年を迎えた今年1月、白血病が判明し緊急入院。復帰への執念で7月に一時退院するなど、闘病生活を件名に乗り越えようとしたが、無念の若すぎる死を迎えた。

先週容体が急変
もう一度、歌いたい-。その一念で、1メートル63、38キロの細身に抗ガン剤を打ち、病魔と戦い続けた本田さん。希望と不安が交錯する中、入退院をくり返した10ヵ月に及ぶ闘病生活。ファンや関係者の温かい励ましに包まれ、歌姫は静かに息を引き取った。
「天使が天国へ戻って行ったような、眠るような最期でした」
6日早朝、本田さんを看取った関係者は本紙(サンスポ)に明かした。
「本人は最後まで、死ぬとは思っていなかったでしょう」と言うほど、順調に回復していた。この土日には一時来たくまで決まっており、本田さんは「お鍋が食べたい。私は餃子をつくるわ」と話していたという。
ところが先週、3日に容体が急変。本田さんは「肺が痛い。ひどく痛むの」と訴えた。菌が肺に入ったのが、抗ガン剤の副作用で衰弱仕切っていた体は、急速に精気を失っていったという。

1月白血病判明
本田さんは今年1月12日、体調不良から受けた検査で白血病が判明した。デビュー20周年を迎え、記念アルバムやミュージカルなど、精力的な活動に乗り出した矢先、告知され際はショックで泣き崩れたという。
しかし、翌日から復帰へ向け、執念の闘病生活を開始した。3度の化学治療と5月に行った臍帯血(さいたけつ)移植で、7月30日に一時退院。翌日の誕生日を自宅で祝った。闘病を支えたのは、歌うことへの意欲だった。病室ではファンや共演者からの寄せ書きを毎日眺め、「たくさんの人に支えられ、私は生きている。一人でも多くの方の心が豊かになれるよう、歌い続けたい」と無菌室でストレッチを行い、医療関係者を驚かせた。

9月に再入院した後も、病院近くにレコーディング可能なスタジオを確保しようと所属レコード会社が動いていた。
本田さんは「20年歌って、やっと1年生になれると思うの。20周年の間に、後世に残る歌を作りたい」と、芸能生活が21年目に入る来年4月21日を締切りに定め、創作意欲をかきたてた。

最後まで希望を
抗ガン剤の副作用で頭髪は抜け落ち、バンダナを頭に巻いた写真に涙を流す知人もいた。だが本田さんは「私は元気よ、あなたこそ元気なの?」と電話をかけ、笑っていたという。そして、息を引き取る間際まで、「レコーディング、早く頑張らなきゃね」と、自らを奮い立たせていたという。
最後まで、歌い続けることへの希望をもち続けた本田さん。短すぎる38年の生涯を捧げた「天使の歌声」はファンだけてせなく多くの人の心に残るだろう。

本田美奈子.写真


■本田美奈子.(ほんだ・みなこ.どっと)

昭和42年7月31日、東京葛飾区生まれ。昭和60年に「殺意のバカンス」でデビューし「One way Genertion」「孤独なハリケーン」 など実力歌手として数々のヒット曲を飛ばした。平成4年に「ミス・サイゴン」の主役の座を射止め、以後数々のミュージカルに出演し高い評価を得た。16年11月に芸名を「本田美奈子.」に改名した。

■追悼手記
初めて本田美奈子.さんと会ったのは、彼女がガールズ・ロック・グループ、MINAKO with WILD CATSを結成する直前のころだった。
黒いサングラスを下にずらし、上目使いに「ちわっす」とあいさつした。ロックシンガーらしいツッパリ方だったが、その後、事務所関係者を交えて食事に行った時には、私の酒の減り具合を目の端でチェックし、つまみを小皿に取り分け、少し人見知りしながら、見かけとは裏腹の細かい気遣いをしてみせた。
気心が知れてくると、楽屋に遊びに行った時など、抱きつかんばかりに喜んでくれた。石川さゆりの「天城越え」がうまかった。あの頃から歌唱力はしっかりしていた。
ミュージカル”ミス・サイゴン”のヒロイン、キム役を射止めてからは舞台に欠かせない存在となった。最初のうちは声が細く心配していたが1年半のロングランを終える頃には克服していた。
「声の出し方が違うから(アイドル時代に歌っていた)”1986年のマリリン”は歌えなくなっちやった」と得意気に話していた。
”ミス・サイゴン”の日本語の訳詞を担当した作詞家の岩谷時子さんのプロデュースで、越路吹雪さんの”愛の讃歌”をレコーディングしたこともあった。越路さんのマネージャーをしていた岩谷さんは、「越路さんが♪~あなたの…って歌い出すと、客席の人は自分が呼ばれたような気がして”ハイ”って返事して立ち上がっちゃうのよ」などと指導していた。
心で歌うことの意味を彼女は知ったと思う。だから、彼女の歌をもっと味わいたかった。いつか天国で会った時、また聴かせてくれ。(文化報道部長・玉井哲)

=11/7サンケイスポーツ=