それでも、私はあえていいます。「なぜ、そんなに死に急ぐ」と…。(1)
=歌人 宮田美乃里の壮絶な死をふりかえる=
盆休みである。久々に時間ができたので「新・管理人のつぶやき」のアクセス状況をみてみた。一時伸び悩んでいたアクセスが上がっているような気がして、ちょっぴり嬉しい気分。その中で、最初はなかなかアクセスが伸びなかったのに最近伸びているものがある。「新・管理人のつぶやき 684 乳がんと向かい合った 宮田美乃里さん逝く」である。
「アクセスアップの秘密は検索エンジンにあり」ということで「宮田美乃里」で検索すると「水の舞普及会=新・管理人のつぶやき」がありました。
以上は余談です。本題は、検索エンジンを調べたおかげで、宮田美乃里さんの生き方に、ほんの少し、ふれたことができました。検索したHPから転載させていただきます。
歌人 宮田美乃里の壮絶な死をふりかえる。
31歳のとき乳がんを告知され、32歳で左乳房を全摘出した私がヌードになった理由は、簡潔に言えば一つです。乳房を失っても「私は女である」ということを世の中に残したかった、ということなのです。言い換えれば、同じように乳がんで乳房を失った女性を勇気づけたかった、ということです。私は自分の胸の傷も、痛みも、悲しみも、すべてを自分の「誇り」だと思っています。だから、世の中にさらしたとしても、それを恥だとは思いません。 |
宮田美乃里さんは、平成17年3月28日午前6時22分ご逝去されました。やすらかな眠りを心から願います。ここに記す内容はご本人の書き込みのものです。
静かに見守って 静岡市・宮田美乃里 歌人31歳 2002年12月7日
2年前、心から愛した男性から婚約を破棄された。それまで私はフラメンコダンサーとして舞台にたち、講師としても教えていた。けれど、それがきっかけになり、ストレスから体調を崩し、以後、踊ることができなくなってしまった。その後、20歳のころ作っていた短歌が自然に浮かぶようになり、10年ぶりで再び短歌を作るようになった。悲しみを作品にすることで、気持ちの整理をした。300首ほどまとめて、今年の5月、出版した。左胸に大きなしこりを発見したのは、ゴールデンウイーク。ちょうど本の出版と同じ時期だった。検査の結果は乳がんだった。今はセカンドオピニオンといって、いくつかの病院で複数の医師の意見を聞くことが主流だ。私も乳がん治療で有名な病院を、いくつか回った。日本で最も多く乳房温存療法を施行している先生のところへも行ったが、がんの大きさと場所からいって、乳房をすべて取るしか方法がないと言われた。医師によって診断はまちまちだったが、最善を尽くしても5年生存率は6割だという医師もいた。友人や親類は、頑張るように私を励ます。しかし私はもう疲れてしまった。人生は悲しいことばかりだ。だから、今は静かに見守ってほしい。
(毎日新聞2002年12月7日東京朝刊から)
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そして、その反響が女の気持ち 2003年1月25日
反響 読者からの励まし、続々「女の気持ち・乳がんの治療をしない」に
◆筆者の宮田美乃里さんに聞く
昨年12月7日「女の気持ち~静かに見守って」(東京本社・北海道支社版)の筆者宮田美乃里さん(32)に、読者から多数の励ましやアドバイスがあった。乳がんになったが、治療しない、という内容で、その後宮田さんはどうなったか、という問い合わせも数件あった。いかに生き、いかに死ぬかは読者の関心も高いテーマ。「気持ちは変わらない」という本人の考えと、専門家の意見をあわせて掲載する。
◇「今の自分らしさを大切に」
--励ましの手紙など来ているが、気持ちはどうですか。 | |
宮田さん: | 治療を受けるようにという励ましがほとんどで、とても感謝しています。いい医療機関を紹介してくれる方も多く、申し訳ない気持ちですが、治療しない、という考えに今も変わりはありません。 |
--なぜ治療をうけないのか。 | |
宮田さん: | 三つの病院でいずれも乳房を全部取る手術を勧められました。私は心も体も、大きな手術に耐えられないのです。その後も抗がん剤を使うので、副作用に悩まなければならない。 乳房を全部摘出しても再建は可能なのですが、そうすると大きな手術を2回しなければならない。いずれにしろ長期間、病気と戦う体力がないのです。それより今の自分らしさを大事にしたいのです。 |
--手術で治るのでは。 | |
宮田さん: | それは分からない。手術しても再発の可能性はあります。長生きすることに何か意味があるのでしょうか。 |
--若いのにやや厭世的だと思うが。 | |
宮田さん: | 子供のころから病弱で孤独で厭世的だったかもしれない。失恋も影響していると思う。がんと戦っている人たちの手記を読むと、本当に立派だと思うし、尊敬もしますが、私にはできない。私は私の生き方をしたいのです、歌集「花と悲しみ」に収録した歌「スミレにはスミレの美学があるならば、誰も私を規定できない」。そういう気持ちなんです。 |
(毎日新聞2003年1月25日東京朝刊から)
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もう少し考える時間を下さい(2003年2月6日)宮田美乃里、32歳
私は1月25日「女の気持ち 乳かんの治療をしない」インタビューを受けました宮田美乃里でございます。お二人の女性の貴重なご意見を、この欄にお見かけし、読ませていただきました。お気持ち心より感謝いたします。治療を受けないでいるとどうなるのかについては主治医から説明がありましたので存じておりました。
私は生きることに執着がありません。というよりも、子供のころから生きることが苦しくて「なぜ生きなくてはならないのだろう」といつもたえてまいりました。人生のはかなさや虚しさを感じておりました。ですから、現代医療も受けないし民間療法もいたしませんし、もちろん宗教も持たず、ただ一瞬一瞬を大切に生きていけたら、いつ死んでもいい、という思いでおります。家は代々医師の家系で祖父も伯父も従兄弟もみんな医師です。また母は医療調剤専門の薬剤師です。私は大学で心理学を専攻いたしました。現代医療は比較的近い場所にいるように思います。私が「うつ状態」なのではないかという医師の女性の指摘もありました。私自身もそうなのではないかと考え、抗うつ剤を処方してもらったこともありましたが、新しいSSRIやSNRIも効かず、担当医師も私は「うつ」ではないと考えるようになりました。ただもう何年もストレスからくる不眠症で苦しんでいるため、安定剤と睡眠薬は飲んでいます。ここでは詳しくお話できませんが子供のころの精神的なトラウマや悲しみを私は大人になったいまでも抱えています。こどものころ機能不全家族の中で育ち、大人になっても生きにくさを感じている傷ついた人たちのことをアダルトチルドレンと心理学用語では呼びますが、私もそのひとりなのだと思っています。
いまはもう踊ることもなく静かに短歌を作りながら暮らしています。先日の記事に「スミレにはスミレの美学があるならば誰も私を規定できない」という短歌が紹介されていました。その後、たくさんの方から歌集についてのお問い合せがありましたので、この場をかりて書かせて下さい。歌集「花と悲しみ」は沖積舎(ちゅうせきしゃ)から出版されています。1500円です。お申込みは、03-3291-5891(沖積舎)までお願いいたします。本当に心からご心配くださいまして感謝いたします。もう少し考える時間をください。
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批判をするのは簡単です(2003年3月17日) 宮田美乃里
1月25日の毎日新聞で「乳がんの治療をしない」というインタビュー記事でお話させていただいた歌人の宮田美乃里です。私の生き方は「一生懸命に生きている人に失礼」との投書を拝見いたしました。その方が何を根拠に私が一生懸命に生きていないと判断されたのかは存じませんが、その投書を読んで、私は、しばらくの間、涙を流して泣き続けました。子どもの頃から、私は私なりに一生懸命に生きてまいりました。けれど、私の人生はつらいこと苦しいことばかりでした。悲しいことの連続でした。投書をなさった方は、いったい私の人生の何をご存じだというのでしょうか?
人生に疲れて死にたくなってしまうほどの苦しみが、その方にはおわかりになるのでしょうか。一生懸命人生に取り組んで、一生懸命に考えて、一生懸命に悩んで、そうして一生懸命に生きてきてもうこれ以上、頑張ることができないという人間の気持ちが、おわかりになるのでしょうか。批判することは簡単ですが、それはときに人間の心を傷つける暴力になるということも知っていただきたいと思います。
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気に掛けていただき感謝いたします。(2003年3月25日) 宮田美乃里、32歳
さまざまな方が、さまざまな形で、宮田美乃里のことを気にかけてくださることに感謝いたします。この場を借りて、すべての方にお礼を申し上げたいと思います。私が治療を選択しない具体的な理由のひとつをお話させてください。
実は私の母にもがんの疑いがあります。もう5年ほど前のこと、検査結果、がんの疑いがありすぐに入院し精密検査をと、大きな病院の医師からいわれたのですが、母は仕事を理由に逃げてきてしまいました。私が乳がんを告知されたのは昨年のことですから、自分ががんになる、ずっと前のことでした。最愛の母ががんかもしれない、と思ったときは本当にショックで胸のつぶれる思いでした。以前にも書きましたが母は医師の家系で、母自身も医療関係者です。現代医療の最前線の現場はよく知っているはずです。それでも母は検査も入院も拒否しました。私は母の病を自分のこととして考え悩み、がんに関するさまざまな本を読みました。そして、眠れない苦しい日々を過ごして思い至ったことは、母が望まないのならば苦しい検査や手術、抗がん剤や放射線など、そのような無理な治療を母に強要するのはやめよう、ということでした。
自然食品や民間療法も母が望まないのであれば、好きなものを食べさせてあげて、好きなだけ仕事をさせてあげて、自宅で普通の生活を送らせてあげて、できるだけそばにいてあげて、そうやって母の尊厳を守ってあげたい、そう思いました。それによって仮に最愛の母の命が少しだけ短くなったとしても、もし治療によって苦しみ泣きながらベットで点滴や医療器具に拘束されて、それで死んでいくことを思えば、私は母にそんな闘病はしてほしくないし、何より母が闘病を望んでいませんでしたから、私は母の自由にさせてあげることにしたのです。そのかわり、明日、母が死ぬかもしれない、という覚悟だけは心に決めました。そして、仮に明日母が死んでもいいように私は最善を尽くして母を愛そうと誓いました。大切なのは、生きている時間の長さではないと思うのです。生きる内容の問題なのではないでしょうか。幸い、母は、現在も元気に仕事をして自分の趣味も楽しんでおりますが、でも、私は常に不安と闘っています。「もう全身に転移して末期状態なのかもしれない」そう思うこともあります。でも、母は病院で診察を受けようとしませんし、私も無理に治療は勧めません。無理な治療や延命をするよりも、いまを、この一瞬を、幸福に笑って生きてほしい、そう願うだけです。さらに、お話すれば、私の父方の祖母は末期がんで、現在大きな病院に入院中ですが、歩くこともできず、食べることもできず、ただただ仰臥するのみです。全身、さまざまな医療器具につながれて、本当に見るにしのびない状態なのです。命というものの残酷さを私は目の当りに見ています。そのような事情もあり、私は、現在、治療を受けない選択をしています。母に対してあげたのと同じことを自分にあてはめているだけです。
また、手術さえすれば治るように思っておられる方もあるのかもしれませんが、私のがんはそれほど初期ではなく、私の場合、ある医師によると、全摘手術、抗がん剤の投与、放射線治療のすべてをやったとしても5年生存率は6割とのこと。最善の治療をしても再発や遠隔転移の可能性が高いのです。それならば、苦しい治療を受けて長生きするよりも、仮に生きられる時間が少し短くなったとしても、いまこの瞬間を大切に生きたいと願います。
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私の本当の気持ち(2003年4月24日)宮田美乃里
すべての方を敵に回す覚悟で、本当の気持ちを申し上げます。私は一日も早く死にたいのです。この苦しく悲しい人生に終止符を打ちたいのです。治療を受けない決意をしたのはそのためです。最愛の母も、私のその気持ちを知っています。
現在、毎日新聞のインタビュー記事を見たある出版社から、手記の執筆依頼があり、その原稿を書いています。来年には出版できるのではないでしょうか。私の職業は歌人です。これまでの私の著作には「花と悲しみ~魂の軌跡~」があります。お問い合せは、03-3291-5891(沖積舎)まで。そこには、これまでの私の気持ちが書かれています。
私は死ぬ日まで、一生懸命に生きるつもりです。死と向き合って生きることは一瞬一瞬が真剣勝負なのです。誰が批判しようとも、私の気持ちは変わらないでしょう。私のことを「おかしい」という人もいるかもしれません。それならそれで、かまいません。それから、私は、もう何年もカウンセリングを受け、心療内科にもかかっています。ストレスから受診しているのです。けれど、医師もカウンセラーも、私の気持ちを変えることはできませんでした。
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乳房が膿んできました(2003年9月29日)宮田美乃里 32歳
いつも、ご批判および励ましを有り難うございます。皆様のお気持ちは真摯に受け止めているつもりです。だからこそ、このコーナーを読むのがつらく、このサイトを開くときには、本当に勇気が必要なのです。子どもの頃から「誰も自分のことを理解してはくれないと、そう思い続けて生きてきました。最初に自殺を考えたのは小学生のときです。
あれから20年以上の月日が流れました。少女の私は空ばかり見つめて”鳥になりたい”と、いつも願っていました。人間であることが、あまりに苦しかったからです。死ねば鳥になれるだろうかとそう思いました。自分の苦しみや悲しみを他者に伝えるのには、言葉しかないということを学びました。私が取材や原稿の依頼をうけると断れないのは、また、それを他言するのは、どこかで「私は苦しい、理解してほしい」という子供時代からの心の傷がうずくからなのでしょう。
皆さん、取材を受けるとギャラをもらえると思っているのでしょうか。そんなに、たやすく本が売れるものだと思っておられるのでしょうか、毎日新聞の取材から始まって、他の雑誌社から、いくつかの取材を受けました。近々、また、ある女性誌に私の記事が載りますが、一度も、一銭のギャラも、私はいただいたことがありません。多くの時間と労力を割いて取材を受けるのに、一銭もいただけないことは、逆に理不尽だと思うくらいです。本だって残念ながら売れてはいません。あるのは「歌人」という肩書きと、表現したいという気持ちだけです。
さて、ここ最近、ガンが増大し、左乳房の皮膚が切れて傷口が膿んできました、毎日、消毒しガーゼを取り替えていますが、もう、手術するしかないでしょう。ただし、抗がん剤も放射線も拒絶します。それは医師にも話してあります。いくら私が治療を拒むといっても、腐った乳房を放っておけるほどの図太さはありません。一般に乳がんは痛みがないのが特徴ですが、いまは痛みもあります。
これが、私の近況です。リヨン社という出版社から「乳がん 私の決めた生き方~限られた命を花のように~」という本が、数ヵ月後に発行されるかと思いますが、それは乳房が膿んでくる前に書いてしまった原稿なので、手術のことには触れていません。
本の宣伝をすると、また批難されそうですが、私は物を書いて生きているのですから、それぐらいはお許しください。単行本にして200ページ以上ある本を私が書いたのも、冒頭申し上げたとおり「誰かに理解してほしい」という気持ちからなのだと思います。もし、更に雑誌等の記事に興味のある方がおられましたら「女性自身」(光文社)の「シリーズ人間」の係の方にお問い合せになってみてください。その取材は毎日インタラクティブをご覧になった記者の方からの依頼でした。これ以上は、申しません。
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ここに記した内容は本人書き込みのものです。
宮田美乃里さんは、平成17年3月28日午前6時22分ご逝去されました。やすらかな眠りを心から願います。
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▼花と悲しみ~魂の軌跡 宮田美乃里 特別室
http://www6.plala.or.jp/fynet/6tokubetu-situ-miyataminori.htm