「目利き」の消失
世田谷美術館で開催中の「青山二郎の眼」展を見てきました。青山二郎というのは昭和の戦前期に陶磁器を中心とする骨董の目利きとして有名な存在ですが、素封家の生まれで、生涯に行った仕事は2000冊に及ぶ本の装丁くらいだと言われています。ある実業家による中国の陶磁器コレクションの整理から始まった「目利き」ぶりは、洋画家の梅原龍三郎、陶芸家の浜田庄司、北大路魯山人、加藤唐九郎らに及び、人脈としては柳宗悦の民芸から小林秀雄や白洲正子をつなぎ、大岡昇平、川上徹太郎、永井龍雄、中原中也らを包含するなど、昭和前期の日本の美意識の中心であったような感を与えます。
焼き物の評価などは素人にはとても不可能で、我々には利休から始まった「目利き」たちの美意識に感化されるか否かの選択肢しか与えられていないようなもので、青山二郎の美意識も一つの規範となるわけですが、見ていて思ったのはこの「目利き」という存在が、最近はなくなったなということです。テレビを見ていると骨董類の鑑定家というものが登場し、これもある種の規範とはいえぬまでも基準を提供しており、これまで評価されなかったものの「値打ち」を知らせるなど一定の功績はありますが、所詮は商売であり、やはり恒産が裏打ちした青山二郎のような存在にはなりえないなということです。
そう言えば、昔は政治家についての「目利き」のようなものもいたなと、さらに連想しました。「政界の黒幕」などと称せられた人々で、中には社会の暗黒部とつながりをもつ人もおり、そうでなくても収入源不明で贅沢な生活を営んでいた者も多いのですが、彼らが政界に発言力を持つについては、必ずしも本人が利益を得るためではないことがうかがわれました。よってきたるところが旧弊なイデオロギーであったのは確かですが、でもそういった「目利き」たちの一貫性が、中曽根氏あたりまでの首相が、少なくとも「首相らしくない」「器でない」とは言われなかった原因の一つかと思います。一方で現在の「黒幕」もどきには、自分の名声欲、金銭欲、権勢欲が透けて見える者が多いとしか言えません。
以上は保守系の政治家について言えることであるのは勿論ですが、「目利き」が消失したことによって、政治家の評価基準もまちまちとなり、官僚をはじめ他の分野における実績とか、それだけでは不足で、とどのつまりは「血筋」を基準にするしかないような状態にまで堕落しているのが現状です。「旧レジーム」の復活は真っ平ですが、政治家についての「目利き」の存在にだけは郷愁を感じます。
☆国民が 目利きになるのは 夢の国
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