君君たり、臣臣たり | 回廊を行く――重複障害者の生活と意見

君君たり、臣臣たり

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 日本の現状はたしかに何もかも悪くなっています。その責任はどこにあるかと言いますと、これは社会でより権力に近い側にあるといって間違いはないでしょう。もちろん個々のケースについてではなく、概括的に言った場合ですが、大人は子どもより責任があるし、与党と野党では与党の方に責任があります。高級官僚と一般の公務員では高級官僚のほうに責任があるし、経営者と労働者では経営者の方に責任があります。前者は後者より状況を動かす力があるからです。こういう基本を忘れて、国民をあおることを常としているような人がいるのが問題です。


 典型的なのが安倍首相以下の自民党およびその応援団で、今回の年金データのデタラメ処理の件でも、一応歴代の厚相や長官の責任を問うようなことを言っていますが、これはやむを得ず個人的責任に触れたまでで、その後では結局は職員が悪いのだと言いたげに、労使の癒着の問題に集約している。あろうことか保険庁の職員全体にボーナスの一部返上を求め、代償として保険庁解体後の新組織への雇用をほのめかしています。職員に責任なしとは言いませんが、保険庁や年金保険そのもののシステム、そして職員を管理した高級官僚の責任に比べれば、とても比肩できるようなものではありません。現在過去の厚生省および保険庁の高級官僚の生涯賃金を返上するのと、一般職員が今期のボーナスの一部を返上するくらいで、ちょうど釣り合うのではないでしょうか?


 応援団ではたとえば東京都の副知事になった猪瀬直樹氏で、「猪瀬直樹氏に聞く 年金記録漏れ問題の真犯人は誰か『社保庁労組の怠慢が招いた!』」というのが、創価学会系の『第三文明』 という雑誌の広告にありました。抜粋を見ると高級官僚の責任も言ってはいるでしょうが、新聞広告でこのような見出しにするとは、学会とその支持する公明党の体質がわかります。もう一人はあの竹中前総務相 で「年金記載漏れ問題は年金の制度にかかわる問題ではなく、社会保険庁で生じた労働問題」と、6月30日に大阪で開かれた個人投資家向けのシンポジウムでの講演で述べているそうです。


 安倍首相やそのお仲間も含めて、これらの人がなぜこのような発想をするかは、もちろんその方が自分の利益になるからですが、それ以上に「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」という、非合理的な「倫理」が根底にあるのではないかというのが私の考えです。つまり最近の事例に即して言うと、上ないし指導的な地位にある者が失敗しても、下のないしは現場的な立場の者は失敗することは許されず、前者の責任はあるとしても名目的なものであり、後者が実質的に責任を償うべきである、ということです。結果としてお上はいつまでもお上であり、下々はいつまでも下々であるということです。美しい国はそういうものとしてイメージされているのかもしれません。


 「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」というのは孔子あたりから出たのだと思っていましたが、論語では「君君、臣臣、父父、子子」なのですね。「きみきみたり、しんしんたり・・・」、つまりそれぞれの本文を尽くせということで、WEBで調べた限りでは「君君たらずとも・・・」は後世の偽書が発端であるか、あるいは日本での曲解だそうです。中国は易姓革命という概念もある国ですから、それが「君君たらずとも・・・」はおかしいと昔から思っていました。安倍、猪瀬、竹中といった面々は、利害関係もさることながら、おそらくこの曲解が起源の「倫理」を幼少時代から刷り込まれているのでしょう。とくに安倍氏の場合がそうです。正しかった祖父は国民と称する暴徒に引き摺り下ろされた。世論というのは相手にすべきでない。自分は、あるいは自分の選んだ者は、間違いをしでかすわけがない。間違いに見えるのは誰か部下のせいだろうから、本人が責任を取るいわれはない・・・きっと心の中では常にこう叫んでいるのでしょう。


 現実にこの国では、現場の者ばかりが罪に問われています。JR西日本の大事故でも運転士が全責任を負わされかねなかったところに、ようやく日勤教育の非が指摘されましたが、それを主導した企業全体やその幹部の責任が公的に問われるのはいつのことになるのかわかりません。いいかげん「君君たらずとも」とあぐらをかく思考からは脱してほしいものです。


☆お上から 本分尽くすが 不易の理



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