護衛艦見学のあとは、
田戸台分庁舎へ。
HPによると、田戸台分庁舎は、
1913年
横須賀鎮守府司令長官の宿舎として完成
1969年
防衛庁に移管→
海上自衛隊横須賀地方総監部が管理
終戦までに31人の歴代司令長官が居住し、
戦後は9人の在日米海軍司令官等が
居住したそうです。
前回の呉鎮守府のブログで、
書き漏れていましたが、
そもそも、
鎮守府とは何ぞや?
ということで、HPより抜粋。
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出征の準備、防御の計画、
海軍区の警備並びに
所轄諸部の事務を監督する海軍の機関で、
司令長官は天皇に直隷し、
部下の艦船部隊を統率し、
海軍大臣の命を受けて軍政を行い、
作戦計画に関しては軍令部総長の指示を
受けることになっていました。
その下に参謀長、
参謀、副官、人事長、機関長、軍医長、
主計長、法務長等の幕僚がおり、
鎮守府所属の各庁・部隊には、
人事部・艦船部・経理部・軍需部・建築部・
港務部・病院・工廠(こうしょう)・
諸学校及び海兵団・航空隊・警備戦隊・
防備戦隊(防備隊を含む)等がありました。
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要は、地方隊と同じような立ち位置ですね。
(違ったらごめんなさい
)
かなり坂の上にあります。
見渡しが良いから、
この場所を選んだのかな。
中へ入りましょう!!
まずは書斎へ。
ん?
日露戦争で活躍した軍人、
廣瀬中佐!
かなり癖のある字だったんですね。
以下、wikipedia引用。
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《廣瀬武夫》
1904年日露戦争開戦により、
旅順港閉塞作戦に従事し、
第2回閉塞作戦で、閉塞船福井丸を指揮。
福井丸が敵駆逐艦の魚雷を受ける。
自爆用爆薬を点火しに行った、
杉野上等兵が戻ってこないことに気付き、
廣瀬は杉野を探しに沈みいく福井丸に戻る。
船内を3度捜索したが、見つからなかった。
やむを得ず、
救命ボートに乗る際に、砲弾が直撃。
35歳にて戦死、軍人と神格化された。
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軍歌、廣瀬中佐はこちらから。
この席で執務を行っていたんでしょうか。
山本五十六元帥の手紙
かなり貴重な品々を見ることができました。
続いては、ダイニングルーム。
ここにも、
東郷平八郎元帥の書が飾られています。
庭園に続くサンルーム?には、
こんなものが。
南極は氷しかないと思っていた私。
「南極に石ってあるんですね!」
皆さん苦笑されていました![]()
おはずかしい限り。
そして、この田戸台分庁舎では、
幾つかステンドグラスを見ることができます。
葡萄も孔雀も素敵。
さて、次はリビングルームです。
1925年に製造されたという、
スタンウェイC型のグランドピアノ。
演奏会が開催されることもあるそうです。
基地モニター同期の物知りKさんによると、
映画「戦場のピアニスト」でも
このピアノが使われたそうです!!
最近ネトフリで見たばかりなのに、
全然気づかなかった…
今回は特別に、
2階へ上がらせていただきました。
「なんだか、
おじいちゃん家のような匂いがする!」
これには皆さん、同感![]()
とっても綺麗にされていて、
きちんと管理が行き届いているなーと感心。
こちらは、屋根裏。
もっと撮った写真があったのですが、
ブレブレだったり、暗かったりしたので、
掲載は諦めます![]()
1階へ戻り、玄関で、
戦艦陸奥の進水式の写真を発見。
女性は、大正天皇の奥様である貞明皇后で、
この場所は現在、コースカになっています。
当時はどんな景色だったんだろう?と、
想像するだけでワクワクしますね。
2つめの特別見学は、
普段は立ち入ることが出来ない防空壕へ。
中に入ると、それはそれは大きな、
百足やら蜘蛛やらがお出迎えくださいました。
防空壕を出ると、
不機嫌なお天気でも明るく感じます。
この写真を拡大すると、
次の見学先である、
防衛大学の時計台が。
ちょっと見えづらい写真ですみません。
この田戸台分庁舎は、
1年に1度、桜の季節に一般開放されるので、
是非、足を運んでみてください!!
へ続く![]()



























