。 与猶氏:  ですので,僕が直接的にリスナーに与えている影響よりも,ほかのコンポーザーを通して,間接的に与えていることが大きいと思っています。以前はとくに,そんな感じでしたからね。 :  ということは,現在は変わりつつあるわけですか。 与猶氏:  最近はわりと肩の力が抜けてきて,研究しながらの作曲は,意識しないとできなくなってきました。  もちろん「こんな曲で」というオファーがあれば,その方向性を意識しますが,何も要求がなければその場のノリというか,感覚的に作ることが多くなりました。 :  その変化には,どういった理由があるのでしょうか。 与猶氏:  僕は音楽のことを,数学的,ro rmt,図形的というか,パズルのように捉えていました。そして,そんな風に解釈できる音楽こそが面白いという感覚を持っていたんです,DQ10 RMT。でもその裏にあったのは,ある種のコンプレックスみたいなもので,感覚的にやっていたのでは,ほかの音楽家には太刀打ちできる気がしなかったんですよ。  知的な要素とか,何かしら新しいものを提案していかなければ,独自性は出せないと信じていたので,トリッキーなことやイレギュラーなことを,ギリギリまで入れてきました。 :  そうして生まれたのが“与猶サウンド”だったというわけですね。 美少女ゲームからアーケードゲームへインターネットがもたらした化学反応 :  与猶さんは,90年代にPCエンジン作品である「あすか120% BURNING Fest.」といったコンシューマ機を中心に活躍していましたが,その後の活動の場を,PC美少女ゲームに移されましたね。10年以上が経って,今回アーケードゲームのストラニアでBGMを担当したわけですが,そのきっかけはどのようなものだったのでしょうか? 与猶氏:  最初は「」(NDS)でアマチュア活動をしていて,イベントをやったり,YouTubeやニコニコ動画に動画をアップロードしていたんです。そうしたら,グレフの丸山博幸社長がそれを観てくれていたらしくて。  丸山さんはもともと,僕の昔のゲーム音楽をご存知だったそうで,「ニューラルギア」(1990年,X68000)や「マッドストーカー」あたりのサウンドのビジョンが,ちょうどストラニアに合っていたんだそうです。  そこで,僕にコンタクトを取ってくれて,では一度お会いしましょうというお話になったんです。 :  ということは,丸山さんは昔からの与猶ファンではあったものの,とくに繋がりがあったわけではないんですね
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