11月28日火曜日の「うたコン」で、大竹しのぶさんがジュリーが歌った「脱走兵」(訳詞加藤直)を歌ったそうです。知りませんでした。再放送は、5日の火曜日4時15分から。


大竹しのぶさんが、朝日夕刊、毎週金曜日の連載エッセイ「まあいいか」で、「今の私に出来ること」と題して(一部抜粋しました)

 


『私は歌う。「明日の朝早く・・・僕は旅立つ」と。私は歌う。「この世の果てまで 声高らかに ノンというのだ 戦争を拒否せよ・・・ 僕を見つけたら どうぞ ご自由に 撃って下さい!」(中略)
これからも歌いたい歌を歌っていこう、歌い継がれなければならない歌を。』


何かと制限と多い忖度ばかりの世の中で、大竹しのぶさんの表現者としての覚悟が伝わってきました。

 

 

ACT「ボリスヴィアン」は、バブル時代の真っただ中の東京のグローブ座で見ました。ACTの試みがまだ慣れないものであったのと、ボリスヴィアンという人物に対して知識が無かったことで、正直にいうと私には舞台は難解に思えました。あの頃、ベトナム戦争はすでに遠かった。残念ながら、その時は「脱走兵」という楽曲に対し、特別な思いも何も感じずでした。

 

 


ネットで検索したら「脱走兵」は、高石ともやさんが「大統領殿」と訳して歌っていたものを、ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦さんが歌い継いだ曲、だそうです。
ジュリーの歌った訳詞とはどう違うのだろう?と調べてみました。

Moncieur c’nom grande
おエライさんたち 読んでほしい この手紙を
とうとう僕も 戦場へ行けと 徴兵カードを もらったところ
だけど僕は 戦いたくない 見知らぬ人を 殺したくはない
あなたたちは 怒るでしょうが 僕は逃げよう 地の果てまでも
父は昔 戦争で死んで 子供たちは 泣きじゃくってた
女手ひとつ 苦労していた 母も今は 墓の中
罪なき者が 罪なき者の 命を奪う 哀しみの日々
自由のため 国を守れと 戦場に消えて 夢奪われて
Moncieur c’nom grande
この戦争に どんな大きな 意味があるのか
僕は毎日 考え抜いた どんな正義も 見つけ出せぬ
だから僕は 戦いたくない 罪なき人を 殺したくはない
僕は逃げる ひきょうと言われても 憲兵たちよ 撃つがいい 
撃つがいい 


淡々と詩的な ジュリーの訳詞とは、かなりの違いがありましたが、伝えたいことは変わりません。

いま、ちょうど朝ドラの「ブギウギ」の時代は第二次大戦の前夜です。国民に有無を言わさず戦争に突き進む時代の空気を描いていて、例えドラマといえども、見ていると息苦しくなります。