サックスな日々5 | セージのブログ

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デザインの日常化

激しい変化が連続して起こる21世紀
壊れてゆく日常と作られてゆく日常
そんな時代を生き抜く為に、あらゆることを個々がデザインする時代
その一こまを綴ってゆきます

楽器の練習をする時に最も大事な要素は何よりまず集中する事。

しかしこの集中力とは見た目の真剣そうな様子とか真面目な態度とか、そういうことではなくて、頭の中でしっかり出したい音が像を結んでいるか?クリアーな音のイメージが出来ているか?という事。

こんな事を考えるようになったのは楽器を持たずに音を歌う事を始めてから、、

日によって、あるいは体の調子によっては和音を歌おうとしても像がぼやけたり、音程がとれなかったりするのに気付いてから、、。

管楽器の練習の基本中の基本と言えばロングトーンだけれども、

頭の中で音を歌うときにもこのロングトーンに似た、なにか音をしっかりイメージするためのコツがあるのではないか?等と考えるようになってからある一つの結論が自分の中で生まれた。

それは、現代人が日常生活の中で無防備に浴びている音や視覚による情報あるいはノイズの量と質、、。

想像してみよう、テレビもラジオもパソコンもなかった時代の事、、

風や鳥や虫の声、、あるいは料理をしている音、会話の声、、これらが生活の音であり、日常であった時代の事、、

そんな時代に歌の声や太鼓の響きやラッパの音がどんな豊かさを与えていたかを考えると、自ずとある結論にたどり着く、、。

それは現代人の感性はひどく傷つき、ある意味機能を失っているのではないかという事。

自分の中から何かを生み出そうとする時に働くはずの機能が失われつつあるのではないかという漠然とした危機感。

楽器を機械やおもちゃのように扱うのではなくて、中から出てくる歌を歌う道具としてうまく扱えないのはそもそも内面的に歌えなくなっているからだろうなと考えるようになった。

 

マイルスデイビスが「練習ってやつは、祈りを捧げるようなものだ。一週間に一回とか一か月に一回というわけにはいかない。」と言っていたのは単に事実を言っていたに違いない、そして、練習という言葉を音に置き変えれば、「音を出すというのは祈りを捧げるようなもの、、」と読めば余程しっくり理解できる。

 

かくして祈るように強く念じるように豊かな音をイメージしてそれをダイレクトに指に伝えるにはどうしたらいい?が練習の課題となり、それまでの全ての練習を根本から捉え直して練習をするようになった。

 

その結果、楽器を持たずに脳と指を使ったイメージトレーニングみたいな練習のウェイトが増して、いやむしろその練習に手応えと面白さを感じるようになってしまった。本当に早く気付いていればと思わずにはいられない。

 

長々と数回に分けて自分のサックスな日々を書いてきたけど、むしろこれから、、今スタートしたような気分でいる。

今度は理論の話と今の課題を書いてみよう。