和文モールス符号は、欧文モールス符号のABC....の順番にほぼそのまま「いろはにほへと・・・」を当てはめたように構成されています。ところが、
「い」→ A(・ー)
「ろ」→ (・ー・ー)
「は」→ B(ー・・・)
「に」→ C (ー・ー・)
と対応していて、なぜか「ろ」が "飛ばされて" いるように感じます。「ろ」の符号(・ー・ー)に対応する欧文符号は現在の無線局運用規則やITU推奨には現れず、この符号はいったいどこからきたのだろう?と(モールス符号を初めて知った数十年前に)不思議に思っていました。私は、このことを(音感法の語呂合わせにちなんで)"「路上歩行」の謎" と呼んでいましたが、この記事では、その謎の "種明かし" をしてみようと思います。
そもそも、現在使用されている和文モールス符号は、1871年に制定された電信規則に由来するものだそうです(出典:「邦文カタカナ・モールス符号制定の変遷」、電気通信大学学術機関レポジトリ)。これをみると、「ろ」は当時の "Aウムラウト(Ä)" に対応していたことがわかります。同様に、「と」(・・ー・・)は "Eアクサン(É)" に対応しています。飛ばされたようにみえた文字は、実は1865年に制定されたばかりの国際合意(国際電信会議、パリ)による欧文モールス符号の順に沿った割り当てだった、という訳です。
ところが、それでも「いろは・・」が "ABC・・" に対応していない文字がいくつかあります。まず、「濁点」(・・)です。ここは本来「る」の順番ですが、「濁点」の符号を創設するにあたり、文字の形「゛」と符号の形を合わせることを優先したのでしょうか。代わりに、オリジナルの符号(-・--・)が割り当てられたようです。また、「ゐ(ヰ)」は敢えて飛ばしたのか順番とは無関係な符号(・ー・・ー)が割り当てられ、「の」は "Uウムラウト(Ü)" が、そして「お」はなぜか "待機" を表す欧文符号(・-・・・)が充てられています。
(補足追記)「る」と「濁点」が入れ替えられたいきさつは、「モールス通信」(CQ出版社)の9章(pp.132)に記載がありました。明治18年(1885年)にメーソンという方の発案で、「る」(・・)と「濁点」(ー・ーー・)が入れ替えられ、更に「ゐ」「ゑ」「お」がこの時に追加されたとそうです。それまで「お」が無かったのは、「を」と兼用していたからでしょうか。いずれにしても、これで順番的にはスッキリしました。
そして「ふ」で"Z" まで割り当て欧文符号が尽きた後、「こ」から後の文字にはほぼオリジナルの符号が割り当てられたようですが、これらの符号がどのようにして決められたかは定かでありません。「ん」に"文の終了"を意味する欧文符号(・-・-・)を充てたのは洒落っ気を感じますが、これがかえって欧文の記号や略符号との相性が悪い要因になってしまっています。
相性が悪いといえば、括弧の符号はとてもわかりにくいことになっています。和文モールス符号では、上括弧( ⏜ , -・--・-)と下括弧( ⏝ , ・-・・-・)とが、1950年の初代無線局運用規則に先立ち1925年の電報取扱規程ではすでに定められていました。その当時の国際欧文符号では、左右の括弧("(" と ")" )は同じ符号(-・--・-)でしたが、1958年の "Telegraph Regulations (Geneva)" (History of ITU Potal) で左右の括弧が独立し、それぞれ (-・--・)と(-・--・-)に分かれた結果、和文符号とは全く対応しない関係になってしまいました。しかも、左括弧は和文符号では既に「る」に充ててありましたから、いまさらどうにもできなかったことでしょう。おまけに、和文の下括弧と同じ符号(・-・・-・)がこの時ダブルクオーテーション (") に割り当てられてしまったのです。
また、句点(。)や読点(、)の対応も、それより前の時代、既にチグハグなことになっていました。1938年の "Telegraph Regulations (Cairo)" (History of ITU Potal)で、それまでの国際欧文符号のコンマの符号 ("," ・-・-・-)が "STOP" つまりピリオド(.)に付け替えられたのです。"," は新たな符号(--・・--)が与えられたため、初期和文符号では元々読点("、" ・-・-・-)とされていた符号が「区切点」という妙な名前になってしまいました。
(補足追記2)1865年のパリ合意では、符号(--・・--)は "!" に割り当てられていましたが、その後の国際協定ではこれが削除されています。簡潔に行うべき通信において、感情的表現は不要と考えられたのでしょうか。また、1871年当時の初期和文符号では、句読点は(・・・・・・)とされていました。どうやらその名残が、国内海事で使われる日本船舶信号法(国土交通省告示)に残っているようです。この告示では、句点(、)は(・・ ・・) とされています。また、括弧や小括弧の扱いも、初期和文符号相当のまま("( )" は ー・ーー・ー、"「」" は ・ー・・ー・)となっています。
なお、和文符号にいわゆる句点(。)がないのは、元々日本語の文章には句点がなかったからでしょう。明治33年(1900年)頃の電報規則によると、この頃は句読点いずれも(・・・・・・)を使用していたようです。
以上のように歴史をひもとくと、和文と欧文の符号の"食い違い"は、主として過去150年の間に起きた欧文符号表の変遷の結果である、ということがわかります。逆に言えば、和文符号の方は約150年前に制定されて以後ほとんど変化がなく、一方で欧文に先んじて行った括弧や句読点の分化がのちの国際欧文符号の分化の方向と合わず、現在まで不思議な関係のままにある、という訳でした。
日本の近代化により、かな文字は「いろはにほへと」ではなく五十音表で学習することになり、和文モールス符号表もいまでは五十音順に並べられたものが主流になっています。(ただし、無線局運用規則では現在も「いろは」順に書かれています。)これから和文符号を学ぶ場合にはあえて「いろは」順にこだわる必要もありませんが、和文モールス符号がこんな歴史的産物であることを知ると、近代日本の技術的伝承者としてアマチュア無線家が和文モールス通信を楽しみ続けるのも、あながち悪くないかもしれません。