「んじゃ、クラウディアばあちゃん、サトミおばさんの車で日本武道館まで行ってくるから」
日本中が注目するリョウゴ・カンザキとの直接対決当日。キョウイチは普段といたって変わらない様子で靴をはきながらいった。そんなキョウイチに、クラウディアも普段とまったく変わらない様子でいった。
「ええ、行ってらっしゃい。ただ……」
「え?なんだいクラウディアばあちゃん?」
「ただ……リョウゴ・カンザキさんって人、あんまりいじめてあげないでね」クラウディアはフランス人形そのままの顔をやや憂色に染めていった。
「ああ、そんなことか」キョウイチはいった。「わかってるって。んじゃ」
そしてキョウイチは家を出、外で待ち受けていた厖大な信者たちに耳をつんざくような声援を送られながら日本武道館へと向かった。
━━日本武道館。リョウゴ・カンザキvsキョウイチの世紀のフォーラム・ディスカッションが開始されるのは午後2時。それまでにあと10分ほどある。
館内は暗闇に支配されていたが、客席を埋めつくす観客たちの興奮は最高潮にまで達していた。
そのとき、稲妻のようなスポットライトが館内中央を照らす出す。そこに【堕天使の会】の漆黒の天使コスチューム姿の若い男女数十人があらわれ、幻想的な音楽に合わせて神秘的な踊りをおどり出した。どうやらこれが【堕天使の会】のイベントのはじまりを告げるいつもの儀式のようだった。
踊りが終わると、ひとりの七色のタキシードに身を包んだ30歳くらいの男性がマイク片手に出てきた。
「みなさんこんにちわ!日本中が待ちに待った【堕天使の会】主宰者リョウゴ・カンザキ氏vs【ヴァージン・ビート】総帥キョウイチ氏による世紀のフォーラム・ディスカッションの時間がやってまいりました!」
男の異様なハイテンションな声に、観客もつられて大歓声を発する。
「遅ればせながら自己紹介させていただきます。わたくし、自称・日本一のインターネットタレント、ウォルフガング武田と申します。今回の司会進行の大役をつとめさせていただくこととなりました。どうぞよろしくおねがいいたします!」
それからウォルフガング武田と名乗った男は、ようやく今回の主役である論客たちを紹介した。
「【堕天使の会】のみなさんです!」
すると中央に用意されたステージの左側から、黒い天使のコスチューム姿の5人の男たちが登場してきた。無論、リョウゴ・カンザキと4人の信者たちである。
彼らは席につくと、無表情でキョウイチの登場を待ちだした。が、平静を必死に装うとしているのは明白だった。
「続いてキョウイチ氏です!」
キョウイチはジョギングしながらさっさと登場し、さっさと席についてフォーラム・ディスカッションの開始をうながした。それにウォルフガング武田は『あ、はいはい』といって急いで開始を宣言した。
「フォーラム・ディスカッションを開始します!」ウォルフガング武田の声に合わせて、【堕天使の会】の信者たちによるラッパの音色が日本武道館中に響き渡った。
「今回のフォーラム・ディスカッションのルールを説明させていただきます」ウォルフガング武田はいった。「まず【堕天使の会】側に、キョウイチ氏がかつて発表した救世法の欠点や疑問点をあげていただきます。それにキョウイチ氏が反論をしていくという流れになります。ちなみにジャッジマンのような存在はいません。どちらが正しいかはフォーラム・ディスカッション終了後、日本国民のみなさんがきめることがです。余談ですがこの模様は、インターネットで生中継されております!」
観客席の一角には、キョウイチを日本武道館に送り届けたサトミとユミリも姿もあった。
「キョウイチくん、がんばって……!」ユミリは祈りのポーズをしながら声を振り絞るようにいった。
「キョウイチくんも、今回は厳しい戦いになるかもしれないわね」サトミはいった。「なにせ相手が5人だからねぇ……」
自分から喧嘩を売った以上、負けるわけにはいかないリョウゴ・カンザキはなりふりなどかまっていられないと、【堕天使の会】の信者40万人の頂点に君臨する論客を4人引き連れて登場した。彼らは横一列に席につき、10メートルほど前の席にたったひとりついているキョウイチをちら見し続けていた。
そして、フォーラム・ディスカッションははじまった━━。
【堕天使の会】側のトップバッターは、もちろん主宰者のリョウゴ・カンザキ。彼は席から立ち上がってマイクをとり、天使コスチュームのズボンのポケットから取り出した紙を読みながら語りはじめた。
「どうもみなさん、リョウゴ・カンザキです。今日はお忙しい中、ようこそいらっしゃいました」
【堕天使の会】の信者が9割を占める客席から歓声が沸き起こる。
「それではさっそく、フォーラム・ディスカッションをはじめさせていただきます」リョウゴ・カンザキはいった。「今、我々の目の前にいるキョウイチ氏はいいます。『貨幣経済がなくなれば貧困はなくなる!』と。しかし、果たして本当にそうでしょうか?」
キョウイチは無言で聞き続ける。
「この言葉の意味を考えるためには、貨幣経済そのものを知っておく必要があります」リョウゴ・カンザキはいった。「そもそも貨幣経済とは、物々交換の代わりに発達してきた取引方法であります。はじめは貝や石などを貨幣として使っていました。つまり貝や石などに価値を持たせたわけです。時代が下ると今度は貨幣を金などと交換することができる証書にしました。貨幣に金という裏づけを持たせたのです。これを金本位制といいます」
キョウイチは軽く腕組みをした。リョウゴ・カンザキは続ける。
「しかし、金が無尽蔵にあるわけではないので、いずれ金本位制は立ちいかなくなります。そこで今度は国家が貨幣に裏づけを持たせました。これが現在使われている貨幣の原型です。いわゆる信用経済のはじまりなのです。この信用取引の発達により、経済の規模は急速に拡大していきました。現在の貨幣経済の源泉は国の信用なのです。そして国によって経済の規模がちがうので、当然貨幣の価値にもちがいが出てきます。これを国力といいます。この国力の差が各国間の格差をつくっているので、物々交換にしても品質が悪く交換する物の価値が釣り合っていなければ物々交換は成立しないのです」
キョウイチは軽く足を組んだ。リョウゴ・カンザキは続ける。
「それなら物々交換に戻せば国力は関係なくなるのか?残念ながらそうはいきません。一般的に国力の低い国は、生産品の品質も劣っている場合が多いです。品質が悪く交換する物の価値が釣り合っていなければ物々交換は成立しません。結論を急げば、貨幣経済があるから貧困があるのではなく、国の信用度に格差があり、その国自体の国策の不備や国民性など様々な問題があるから貧困があるのです。つまり貧困を解決するには貨幣経済をなくすのではなく、貧困に苦しむ国の政治や経済のシステムを見直し国力をつけるしかないのです。だから単純に貨幣経済を悪者にして済む話ではないのです。以上であります」
リョウゴ・カンザキの論駁が終了した瞬間、【堕天使の会】の信者が9割を占める客席から怒涛のような拍手喝采が沸き起こった。それに両手を高くあげ、満面の笑みで応えるリョウゴ・カンザキ。
一方、キョウイチは飄然と立ち上がり、マイクを持って反論を開始した。
「はいはいお静かに、次はボキの番ですよー」キョウイチの言葉に、客席の歓声はフェードアウトしていった。「残念ながら、まったく話にならないね。だって、古代の物々交換の仕組みと、ボキの貧困をなくす救世法は似ても似つかないから」
しんと静まり返る館内。
「まず、お金には大きく分けて2種類がある。1万円札などの紙幣と100円玉などの金属貨幣。最初に誕生したのが金属貨幣で、次に誕生したのが紙幣。では、なぜ紙幣は誕生したのか?大量に買い物をする際、金属貨幣は重すぎるので買い物場所まで持っていくのがたいへん、そこで【預かり証】というものが発明されたんだよね。それが紙幣へと発展していったわけ」
無言で聞き続けるリョウゴ・カンザキたち。
「では次に、なぜ金属貨幣は誕生したのか?金属貨幣が誕生するまで、人類は物々交換で生活をおくっていたんだよね。獣の肉を持っているAさんと魚を持っているBさんがお互いの食料を交換しあうという具合。しかし、それでは獣の肉を持っている人、魚を持っている人を探して見つけるのがたいへんということで、物々交換をしたい人たちが集まる【市】というものが誕生することとなった」キョウイチは続ける。「これで一件落着、めでたしめでたし━━と、なると思われたんだけど、問題がいくつか浮上してくる。物々交換をおこなうためにはいうまでもなく、自分自身なんらかの物品を持っていることが条件。これは体力、知識、技術、才能がない人たちにはかなりたいへんなことだったと推測される。また、たとえなんらかの物品を持っていたとしても、その物品をほしがる人を見つけるのがこれまたたいへんだったらしい。そんな中、人気を集めた物品が米をつくることができる稲で、人々は稲を物品貨幣として使うようになっていく。ちなみにローマでは塩、中国では貝だったらしい」
固唾をのんで聞き続けるMCのウォルガング武田。
「しかし稲は長持ちしないので、長く保管できる金、銀、銅による金属貨幣がつくられていったというわけ。これが貨幣経済誕生の大まかないきさつ。一見うなずかざるをえない経緯に見えるかもしれないけど、その金属貨幣というものをつくってしまったがために貧困、格差、詐欺などによるむごい悲劇が全世界を覆いつくすことになってしまったのよ」キョウイチはいった。「なにも稲の代わりに金属貨幣など発明しなくても問題は解決できる。物々交換をおこなうためにはなんらかの物品を持っていることが条件であり、体力や知識などがない人たちには非常に不利だったことなのだろう。それならば、獣の肉をとるチーム、魚をとるチーム、稲をつくるチーム、布地をつくるチーム、というふうにそれぞれに分かれ、物品を得る技術がない人たちはチームのトップの人たちのもとで修業を重ね、物品を得る技術を1から身に付けていけばいいだけのこと。そうすることによって物品を得られずに困る人はいなくなる。人気のない物品しか得ることができなかった人たちも、人気のある物品を得るチームに所属させてもらえば一件落着。つまり、物々交換の時代から貨幣制度の時代に変わらざるをえなかった真の原因は【分業制のなさ】だったのよ。現代は分業制が完全に確立されている。その現代から貨幣をなくしさえすれば、貧困に苦しむ人も仕事が見つからずに困る人もいなくなるというわけ」
リョウゴ・カンザキの表情が、しだいに渋いものになっていく。
「ボキは貧困をなくす救世法の中でこういった。『人々がなんらかの生産的労働に分かれ、それぞれにつくったものをお互いにただで提供しあえばいい』と。個人個人が物品を手にやってきて物々交換をおこなう市とは似ても似つかない。これでボキの貧困をなくす救世法と古代の物々交換の仕組みが、それぞれまったくちがうものであることをわかってもらえたと思う。以上です」
キョウイチはそういい終えると、軽く息をついて席に戻った。
館内はただただ唖然として言葉をなくすだけだった。リョウゴ・カンザキをはじめとする【堕天使の会】側の5人も完全に閉口してしまっていた。
そのとき、客席のユミリはパチパチと拍手しながら『キョウイチくん、素敵!』と絶叫していた。