……僕は家の外を歩いていた。特に目的はなく、健康のために歩いていた。
歩くスピードは速くも遅くもない。軽く手を振りながら普通のスピードで歩き続けていた。
歩くというのは楽しいものだ。歩きながらいろいろなことを考えたりするのが僕は楽しい。
そのときだった。僕の斜め後ろにひとりの男が歩いてきた。その男はいった。
「やあ、僕はホモでね、あなたがタイプなんですよ。あなたについていきますよ!」
へんなやつだなと思ったが、僕はとにかく無視して歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか。すでに45分くらいは経過していると思う。
僕は腕時計はつけないタイプだった。特に理由はない。学生時代からそうだった。
しかし、さきほどあらわれた謎の男は、まだ僕のあとをしつこくつけまわし続けている。
男はニタニタ笑いながらいつまでもいつまでも僕の斜め後ろを歩き続けた。しかし僕はとにかく無視して歩き続けた。
どのくらい歩き続けただろうか。すでに日が暮れている。しかし、それでも僕の斜め後ろには謎の男がついてまわっていた。
が、気がつくと男はいなくなっていた。ほっとした僕はそれから2時間ほど歩き続けて家に戻った。
家には鍵がかかっていた。鍵をかけた覚えはないのに鍵がかかっていた。
いったい誰が鍵をかけたんだろうか?僕は本当に鍵などかけた覚えはないのだ。
しかし、僕は万一のために鍵を持って外出していたので、その鍵でドアを開けて家に入ることができた。
家の中に入ると、愛猫のキャロハチが出迎えてくれた。
ちなみにキャロハチとは【キャロライン八世】の略だ。僕の妻が昔好きだった少女マンガのヒロインがキャロライン八世という名前だったので、そこから愛猫の名前を頂戴したのだ。
僕が帰宅するとキャロハチはミヤーミヤ―としゃがれた声で鳴きはじめた。妻は猫の言葉がわかるらしいが、僕はわからないので無視してリビングに行くことにした。
リビングといえば、僕が子供の頃に読んだ伝記にリビングストンがあった。でも、リビングストンがなにをした人だったのかはもう覚えていない……
……そこは東京最大の反政府地下ゲリラ組織【アーバン・ジャングル】のアジト【キャバレー・イン・ザ・ヘブン】にあるケーキショップ【ラヴ・シェーカー】だった。その客席でガンジが、一冊の本をしかめっつらで読みながらうんうんとうなっていた。
「わからねー、なんでこんなつまらねー小説が全世界で1000万部の大ベストセラーなんだ!?」
そこにキョウイチがユミリを連れてやってきていた。
「やあ、ガンジ」
「あ、キョウ様!」本を閉じて立ち上がり、さっと敬礼するガンジ。
そのガンジが持つ本に目をとめてキョウイチがいった。
「ガンジが本なんか読むのか?それ、なんの本なんだい?」
「い、いやぁ、これはですね……」
もじもじするガンジに代わって、【ラヴ・シェーカー】のパティシエであるトオルが説明した。
「キョウ様、それはですね、ナツキ・ウエムラの【ホモと猫とリビングストン】っていう小説です」
「ナツキ・ウエムラ……?」
怪訝そうなキョウイチとは裏腹にユミリが珍しく大きな声をあげた。
「あ!ナツキ・ウエムラなら知ってるわ!何年か前に彗星のごとくデビューして以来、今や日本だけでなく世界中で売れてる作家よ」
「へー、そんな有名な人なんだ。で、どんな内容なの?」キョウイチはそういいながらガンジのそばに歩み寄った。
しかし、ガンジは恥ずかしそうにもじもじするだけで、【ホモと猫とリビングストン】をキョウイチになかなか渡そうとしない。
「なにまごまごしてんだガンジ。早く本を貸せよ」そういってキョウイチは【ホモと猫とリビングストン】を取り上げた。
……約1分後、キョウイチはシニカルな笑みを浮かべながらガンジにいった。
「ガンジ、君、こんな本が好きなんだ?意外な趣味だな、ケケケケケ」
「ち、ちがうんですよキョウ様!今流行りの作家なんで、社会勉強のために、ちょっとだけ読んでいただけなんですよ!」
「君の部下たちがこの事実を知ったらさぞや幻滅するだろうな」
「いわないでくださいよキョウ様!」
「こんなアホらしい駄本にかかわりあうなんて時間の無駄だ」キョウイチは【ホモと猫とリビングストン】をテーブルに無造作に放り投げていった。「しかし気になるなぁ。世界中で売れているなら、もっとすごい内容なのかと思いきや、なんなのあの意味不明な内容?」
ユミリが説明する。
「それがねキョウイチくん、その意味不明なところが奥深くで深遠ですばらしいと絶賛されているようなの」
「へー」キョウイチは納得しかねない顔でいった。「ボキも小説はけっこう読むほうだけど、ボキにはナツキ・ウエムラさんとやらの小説の良さはよくわかんないね」
「そうですよねキョウ様」と、ガンジ。
「でも、世界中ですごく売れているのは事実だし、孤高の芸術って案外そういうものじゃ……」
ユミリの言葉の腰をトオルが折った。
「ユミリ皇后、それはちょっとちがうんですよ」
いつしかキョウイチの信者たちは、ユミリのことを【皇后】と呼ぶようになっていた。トオルは続ける。
「おもしろい本だから売れている、すぐれた本だから売れている、っていうのは浅はかすぎる考えです。世の中の裏にはドロドロとした陰謀や策略が渦巻いているんです」
「どういうことだい?」と、キョウイチ。
「ナツキ・ウエムラの本を上梓してきたのは【テスト・オブ・マネー出版】という会社なんですが、その会社がテレビやマスコミの力を利用してナツキ・ウエムラのマーケティングに力を注いでいるんです」
「たしかにここ数年、毎年10月になると、ナツキ・ウエムラがノーベル文学賞候補に名前があがっているって、テレビのニュースやワイドショーで必ずとりあげられてる気がする……」ユミリが思い出したようにいった。
「それなんですよ。それがナツキ・ウエムラと【テスト・オブ・マネー出版】の罠なんです」トオルがいった。「はっきりいって、ナツキ・ウエムラがノーベル文学賞の候補にあがっているなんて、証拠はどこにもないんですよ。ただマスコミがそう騒いでいるだけなんですよ。いうまでもなく、裏には【テスト・オブ・マネー出版】の力が働いているんです」
「その【テスト・オブ・マネー出版】って会社、ひょっとして【ロスト・イン・ザ・ダークネス】ともかかわりがあるんじゃないの?」
キョウイチの質問にトオルはいった。
「さあ、そればっかりはわかりませんね。たしかに可能性は充分に考えられますが……」
「疑惑のベストセラー作家ナツキ・ウエムラか……」キョウイチは再び【ホモと猫とリビングストン】を手にとっていった。「またひとつ、ボキが天誅を下さないといけない敵が増えたようだね」