西暦1995年の春をむかえていた。そんな私の左胸からの出血はだいぶおさまっており、以前のように塗炭の苦しみに襲われて大量の血が流れ出ることはなくなっていた。
そうなのである。ミスターXからのあの【悪魔の言葉】を何度思い出しても、かつてのような死ぬほどの苦しみに襲われなくなっていたのだ。この頃から苦しみの度合いの表現も【壮絶な絶望】から【強烈な苦悩】に変わりはじめていた。
ところで、なぜミスターXの悪魔の言葉による壮絶な絶望から脱却できたのか?よくわからないが、これはもう【時間(とき)の流れの作用】としかいいようがない。時間の流れというのは目には見えないが、実は極めて偉大な薬なようである。
現在、死ぬほどの絶望に襲われながらこの文を読んでいる人たちは、その【時間の流れの作用】を信じて、もう少しだけ生き続けてみることをおススメする。
しかし、ミスターXの記憶が苦しみの棚から消えつつあったものの、中学時代のカサモト軍団をはじめ、私の左胸を執拗に痛撃してくる苦しみの記憶はまだまだ多くあった。
その中でもこの頃、特に私をめいらせたのが、第1巻にちらりと書いた小学生時代の同級生のイシミという奴である。
彼は小学1、2年の頃、坊主頭だった私を『おい、サル!』と罵倒し続けた奴だった。
そんなイシミと私は小学5、6年のとき、なんとクラスが一緒だったのである。さらに奇怪なことに、イシミは普段私に憎まれ口をたたいているというのに、なぜか私の友人のような顔をしてつきまとってきたのだ。
ある日のこと。家にひとりでいたとき、ドアをノックする音が聞こえた。ドアスコープをのぞいてみると、そこにはイシミの顔があったのである。
私のことをサルと罵倒しているというのに、なぜか私を遊びに誘いにきたというわけなのだ。
私が居留守をしてやりすごすと、やがてイシミはメシア家を離れていった。
が、ほっとしたのも束の間、外からなにやら人の叫び声が聞こえてきたのである。
……しらばってくれてんじゃねーぞぉぉぉ……ほんとはいるくせによぉぉぉ……
私の居留守を読んだイシミが、外で怨念の絶叫をしていたというわけなのだ。
ほかにもイシミの私に対するとち狂った言動は数多くある。
ある日、外で多くの友達と遊んでいるときのこと。私のなにげない発言が気にくわなかったらしいイシミがこう叫び散らしたのだ。
「うるせぇ!おまえはサルじゃねーかよ!」
また、ある日の授業中。私が黒板の前でひとりでの朗読かなにかを終えたときのことだ。イシミはこういった。
「ねえねえ、昨日と同じ服きてない?」
きわめつけが今から書く【つば吐き事件】である。
ある日の図工の時間。外で絵を描くことになり、私はとある花を描くことにしてその場に座り込んだ。
と、そのとき、なぜか私の隣に座っていたイシミが私の肩をぽんぽんとたたき、『あっち行こう』とやや離れたところを指さしていたのである。
しかし私は選んだ花を描きたかったので『いや、ここでいい』と断った。
が、イシミがあきらめるわけがなかった……。
『ねえねえ、あっち行こう、あっち行こうよぉぉぉ』といいながら、いやがる私の服を引っ張り出したのだ。そしてしばらくたったときである。いやがり続ける私の顔にイシミがぺっとつばを吐きかけたのだ。
……結局、気の小さい私はイシミの誘いを断りきれず、イシミに服を引っ張られて絵を描く場所を変更することにした。そのときの私の顔はイシミに吐きかけられたつばでべとべとだったのだが、イシミに引っ張られながら別の場所に移動するこのときの10数秒間の究極の屈辱感は、いまだに消えない記憶として脳にこびりつき続けている……。
人から顔につばを吐きかけられる━━いうまでもなく生まれてはじめての経験であり、これから先の人生で2度と経験することはないだろう。私は小学生にしてそんなとんでもないことを経験してしまったのだ。
場所を変更し終えると、イシミはぞっとするほどやさしい口調で私にこういった。
「さっきはごめんね」
……さっきはごめんね……さっきはごめんね……人の顔をサルとののしり、さらにその人の顔につばを吐きかけておいて、『さっきはごめんね』の一言で許されていいのだろうか?無論、許されていいからイシミはなにからも裁かれず、のほほんと人生をエンジョイしているわけである。
1995年当時、私は何億回イシミの顔を金属バットでぐちゃぐちゃにたたきつぶすことを想像したことだろうか……。
人の顔をサルとののしり、その人の顔につばを吐きかけてもなんの罪にも問われない━━このとち狂った世界を変えてくれる人はあらわれないのか?あらわれてくれないなら、やはり自分がやらねばなるまい。
サルとののしられた顔につばを吐きかけられた屈辱感。その泥にまみれながら死ぬわけにはいかない。なんでもいいから世界に変革をもたらす波紋を投げかける必要がある。イシミに対する強烈な憎悪も、当時の私の代表的な原動力になっていた。