木村藤子の説
昨今の子育てに関する悩みの中でも、とりわけ深刻になっていることのひとつに、いじめ問題があります。
私のところにも、いじめ問題に関わるさまざまな立場の人が、全国各地から相談におみえになります。
この拝殿の中で、いじめの現場の生の声を、日々、耳にし、現場での実情を知るにつけ、いじめ問題について考え込むことが増えております。
ご相談にみえる方の中には、いじめで子供を亡くされた方もおり、子供に先立たれた親の身の置き所がない深い嘆き、悲しみ、無念さ、つらさに触れるたび、私も心が痛くなります。
そのような現実を目にするたび、いじめで苦しんでいる子供たちをなんとかして救いたい、また、学校の教師や親をも救いたいという思いに駆られるのです。
そして、拝殿でそのような方々と接するうちに、私は、この「いじめ」という言葉の使い方そのものに問題があるのではと考えるようになりました。
そこで、非難を浴びることを覚悟したうえで、拝殿での現実を交えながら、いじめ問題における私の考えをお話しさせていただこうと思います━━
メシアの論証
━━と、木村藤子のいじめ論がしばらく続くのだが、明らかに疑問に感じるところがある。最後の『私の考えをお話させていただこうと思います』という言葉。
木村藤子は神様と交信することができ、神様から人々を救うためのアドバイスをもらっている霊能者なのだから、ただの人間である自分の考えなどではなく神様からいじめ解決のアドバイスをもらい、それを本の中に書くべきではないのか?
ただのおばさんのあなたの考えなど誰も聞きたいとは思わない。神様と交信ができるというのなら、さっさとその神様からいじめを根絶させる方法を教えてもらってくれ。
しかし、いまだにいじめ問題がまったく解決されておらず、木村藤子自身もなぜか神様からいじめを解決する方法を聞こうとしないところを見ると、神様と交信ができるという木村藤子の話はやはり大ボラだということが理解できる。