厳しい状況に立たされた近藤麻理だったが決意をかためて動き出した。
そして1999年6月26日、近藤麻理は無事にアルバニアに到着し、本部に連絡をとって受け入れ先がきまったことを知る。
しかし、ここで大きな問題が発生した。シニック家のパスポートが失効しており、他国に出国できないことが判明したのである。
そこで近藤麻理はパスポートを申請するため、膨大な業務を抱えながらもブルガリア・ソフィアの日本大使館に連絡をとった。
仕事が終わる頃はいつも深夜。しかし近藤麻理は寝る間も惜しんで渡航のための書類作成にとりかかった。しかし平和協定が結ばれたといってもコソボの治安は悪い。夜中にたびたびシニック家を訪れるには危険をともなった。
さらに作業は予想以上に難航した。身分証明書ひとつとっても、市役所などが機能していない紛争下では発行は望めない。しかたなく両親は結婚証明書、ネジールくんは出生証明書で代用した。
さらにはセルビア語とアルバニア語の言語表記を統一する必要にかられたりなど、問題は次から次へと降りかかった。しかも100回コールして1回つながればいいという最悪の通信状態。連絡ひとつとるのも苦労の連続だった。
一方、日本ではネジールくん受け入れの費用をどうするか?という現実的な問題に直面していた。
片山家━━。
「費用は少なくても1500万くらいはかかるだろうな……」
そういう山口医師に片山直樹は思いきりぎょっとする。
「え!?1500万か。ハァ……」
そのときである。もうひとりの友人の上原純一がこのような提案をした。
「新聞社に働きかけてみたらどうかな?マスコミにプレリリースしてもらえば、募金も一気に集まるんじゃないのか」
━━さっそく片山直樹は地元の北國新聞社に相談してみた。するとすぐさま社長に伝えられ、『社を上げて応援するように』という号令が下った。
そして北國新聞社は『病の少年ネジールくんが日本の金沢にやってくる』という記事を異例の大きさで掲載してくれた。
その記事の反響は大きく、ネジールくんを助けたいという思いから多くの募金が集まるようになった。