ある日、少年の目を診察していたときのことだった。診察後、少年の母親が困った顔で服部匡志にこういったのだ。
「うちにはそんなお金はとても払えません……」
網膜硝子体の手術には高度な技術と特殊な機材が必要なため、手術費は最低でも300ドルはかかる。それは田舎からきた患者にとっては年収以上の金額だった。
どうしたらいいんだ━━服部匡志が考え込んで目を離した一瞬のことだった。気づくと診察にきていた親子が帰ってしまっていたのだ。
貧しさゆえに手術を受けられない━━これがベトナムの現実だったのである……。
数日後、今度は両目がほとんど失明状態の少女がやってきた。
「ここまでほうっておいたら、治すには手術するしかないね」
そういう服部匡志に少女の母親がたずねる。
「……費用のほうは?」
「300ドルほどです」
すると母親は表情を暗くした。
「そんなにかかるのならあきらめます……」そして母親は娘を連れて病室をあとにしようとした。
そのときだった。服部匡志が母親を止めたのだ。
「待ってください。僕に手術させてください」
「でも、お金が……」
「お金は僕がなんとかしますから」
ざわつくスタッフ一同。なんと服部匡志は患者に無料で手術するといったのだ。
無論、それは普通では考えられないことだった。しかし服部匡志の思いは純粋だった。
少女の大切な未来に光を与えたい━━そうした思いを抱きながら服部匡志は無料で手術をおこなった。
手術から数日後、病室で母親が娘にたずねる。
「どうだい?見えるかい?」
「ママ、見えるよ!」少女は喜びの声をあげた。「お医者さん、ありがとう!」
そんな親子にやさしく微笑む服部匡志。が━━それからしばらくたってから、服部匡志は病院幹部に呼びつけられることになる。
廊下で激しく非難される服部匡志。
「日本人ドクターに手術してくれと患者が大勢押し寄せてきたらどうするんだ!」
そのとき、ひとりの人物が割り込んできた。
「そのときは僕たちがハットリ先生を助けます」
それは以前、服部匡志に向かって『どうせすぐ日本に帰るんだろ?』といったスタッフのリーダー的存在の青年だった。その後ろにはほかのスタッフたちも顔を揃えており、彼らは微笑みながら尊敬を込めたまなざしで服部匡志を見つめていた。もはや残業をきらっていたときの姿は完全になくなっていた。
服部匡志は彼らに向かっていった。
「カン・ルン(ベトナム語で“ありがとう”)」
スタッフの青年は当時を振り返っていう。
「実は親子が退院するときお金を払いたいといったんですが、ドクターハットリはけっして受け取ろうとしませんでした。代わりに少女に『君がこれからすることは一生懸命生きることだ』とおっしゃったんです。その言葉にすごく感動し、ずっと先生についていきたいと思いました」