━━2001年、服部匡志は日本各地の病院で年間500件以上もの難しい手術をこなし、世界トップクラスといわれるほどの高い技術を誇っていた。
彼の専門は網膜硝子体の内視鏡による手術。それは目の最も大事な部分で、失明の危険のある網膜硝や網膜剥離などを治す最先端医療だ。
しかしその年、服部匡志に人生を大きく左右する出来事が起きる。
世界中から多くの眼科医が集まって開かれた日本臨床眼科学会でのこと。たまたま隣に座ったベトナム人の女性医師がこう話しかけてきたのだ。
「ベトナムの医師に先生の網膜硝子体の技術を教えていただけませんか?」
無論、服部匡志はぎょっとする。
「え?ベトナム!?」
近年、食事の欧米化が進んだベトナムでは糖尿病患者が増加していた。しかし、その分野での医療が遅れているため網膜硝を悪化させ、失明する人が続出しているのだという。ベトナム人医師は服部匡志にいう。
「多くの貧しい人は手術を受けられないがために失明しているんです」
その話を聞いた服部匡志はベトナムに行くことを決意する。しかし短期間で技術のすべてを教えるのは難しい。そこで服部匡志は勤める病院の院長にこういう。
「1週間……いや、できれば2週間、ベトナムに行かせてください!」
しかし院長は理解ある返答はしてくれなかった。
『行くなら病院をやめてから行け!』━━それが院長の答えだったという。
このまま病院に勤めていれば何不自由なく暮らせる。病院をやめるとなれば大事である。しかもベトナムでの活動は報酬は一切ないボランティア……。そのとき服部匡志の脳裏をよぎったのは、服部匡志が高校のときに胃ガンで他界した父のことだった。
父は入院中、担当医に治療について頻繁に質問をしていた。しかし担当医は別室で同僚にこう話していたという。
「あの82号室の患者、うるさいやつだ。どうせもうすぐ死ぬのに。ククク」
父の見舞いにきていた服部匡志はその会話を偶然聞いてしまったらしい。彼は当時の心境をこう語る。
「こんな医者がいるとは……許せないなっていう気持ちはすごかったね。それだったら自分は本当に心の苦しみがわかる医者になってやろうっていうのが動機かな」
医者を志すきっかけをつくってくれた父。その父が他界する前日に残した遺書にはこう書かれていたという。
おかあちゃんを大切にしろ。
人に負けるな。
努力しろ。
人のために生きろ。
……父のこの言葉を思い返した瞬間、服部匡志の胸に次のような思いが湧く。今の自分にとっては患者のために生きろということではないのか……?
服部匡志は心をきめ、翌2002年の4月、フリーの眼科医として単身ベトナム・ハノイに渡ることとなった。
活動の拠点はハノイ国立眼科病院。しかし服部匡志は赴任そうそう、信じがたい光景を目にすることになるのであった……。