私の記事コンテンツに≪メシアの論破ショー≫ というものがある。
これは送られてきたむかつくコメントを記事に公開し、一字一句論破してコメントを送った人間を屈辱感・敗北感の沼に突き落とすという意図のものだ。
この≪メシアの論破ショー≫は賛否が分かれるコンテンツなのだが、楽しんでくれているファンもけっこうおり、ある読者の人などは『私なんかそうした記事を読んで興味を持ったくらいですから』というメッセージを送ってきてくれたこともあった。
が━━私は先日、≪メシアの論破ショー≫の記事を半分ほど一気に削除することにした。内容に羞恥心が湧いてきたからだ。
実は私はブログ初心者の頃、もらったコメントにコメント欄の中でコメントをお返しする“コメントレス”というものを知らなかったのである。現在は不快なコメントを送られてきてもコメントレスという形で“大人の対応”をするようにしているが、コメントレスを知らない頃は反論コメントや中傷コメントが送られてくるたびにそのコメントを記事に公開し、逆にあざけ返すという内容の記事を書き続けていたものだった。
コメントレスを知ってからの私はそんな記事たちに赤面するようになり、多くのファンに惜しまれつつも≪メシアの論破ショー≫記事の大半を削除することにしたというわけなのである。
これがなにを意味するかおわかりだろうか?私の人間的・精神的な成長を意味しているのである。
私は2008年にブログをはじめる以前からメシアに目覚めており、もうすでに悟りを完璧に開ききったものとばかり確信していたのだ。が、それは早計であり、私もまだまだ人生の修行中にいることを今日この頃痛感している。
そんな私は最近、とある怒りに駆られている。
たしか先月頃、ひとりの高校生くらいの少年ブロガーのコメ友グルっぽに参加していたのだ。しかし運営者の少年はコメントをもらうばかりで一向にコメント返しをしてくれない人だったので、『ところで、コメント返しはしてくれないんですか?』という文をコメントの最後につけくわえることにした。
するとさっそく少年からコメント返しが届けられた。その内容は次のようなものだった。
「なんかよくわからないです(笑)」
私はこのコメント返しに『そうですか(笑)』という苦笑いコメントレスを返したのだが、それを最後に私はその少年のコメ友グルっぽを脱退することにした。
また、パント総帥率いるMYBと人類史に残る死闘をくり広げた第1次アメブロ聖戦中のこと。私のコメントを読んだパント総帥の友達らしい中学生くらいのひとりの少年がこのようなことをいったのだ。
「メシアさんっていう人がわけのわからないことをいっている。メシアさんが知り合いでなくてよかった。メシアさんがいないほうが世の中平和だと思う。メシアさんにはいなくなってほしい」
……当時の私はブログ界に苦しみを広げる悪の勢力を滅却する戦いを続けていた正義のリーダーである。今紹介した少年のコメントは、その私の意見を読んでのものなのだ。この少年のコメントを思い出すたびに━━『俺の限りなく具体的で論理的な絶美の文が、なんでわけがわからないんだクソ野郎……』━━といった憤怒の形相のもうひとりの自分が姿をあらわしてくるのである。
これは『なんかよくわからないです(笑)』というコメントを私の記事に入れた少年に対してもまったく同じ。私はアラビア語や古代ヘブライ語で一般相対性理論の話を書いているわけでもなんでもない。なるべくやさしい、なるべくわかりやすい日本語で、日常にいくらでも転がっている話をしているだけのことだ。それがなぜ『よくわからない』になってしまうのだろうか……?
私はもうひとつのブログ≪真・鉄拳王への道≫
で知的な中・高生の少年たちとばかり会話をかわしているので、こちらの≪メシアのモノローグ≫であまり頭のよろしくない中・高生と出会うとついイラッとなってしまうのである。
が、しかし、だ。前述したように私はまだまだ人生の修行中の身。コメントレスというものを知らない頃、むかつくコメントを送られてくるたびに≪メシアの論破ショー≫記事を書き続けていた自分が今では恥ずかしいのだ。自分の文章や説明をさっぱり理解できない頭のよろしくない中・高生に今はむかついていても、数ヵ月後、数年後にはまた新しい視点や価値観が生まれているかもしれない。
私はすでに90%ほどメシアとして、弥勒菩薩として覚醒を遂げてはいるが、人生の勉強はまだまだ果てしなく続くというわけなのである。
この記事を読んでいるあなたも、今はメチャクチャ不愉快で頭にくる事柄も、数年後には寛大に受け止められる高い精神レベルの人間に成長しているかもしれませんよ……。