ブログの魅力のひとつといわれるコメント。『いったいどんなコメントがきてるのかなー?』というのを楽しみにブログをおこなっている人も多くいることなのだろう。
ところで私は以前、礙さんという方からこのような批判のコメントを寄せられたことがある。
「自分のブログにコメントがこないからって、そういういい方はいかがなものでしょうか?」
「本当に魅力的なブログならコメントがたくさんつくものです」
ふたつ目の文が書かれたコメントは削除してしまってもうないのだが、こうしたコメントでわかるように礙さんは“コメントの数”というものに異常なこだわりを持っているようだ。
コメントの数が多ければ多いほど人気があり、コメントの数が多ければ多いほど内容がよくて魅力的━━きっと礙さんはこうした価値観に頭の中が支配されていることなのだろう。
が、だ。いろいろなブログを見て回っていたある日のことである。なんと37件ものコメントがついていた記事と遭遇したのだ。
コメント数37件━━私の記事につくコメントは多くて5件くらいなので、37件などというコメント数は現実離れした数といってもいいほどだ。
『37件ものコメントが寄せられた記事━━果たしてどんなすごい内容なのだろうか……』と、固唾をのんで少々の緊張を持ちながら記事を見てみた。
そしてその記事は文章のみのタイプのもので、写真も動画も漫画も一切ないシンプルなものだった。
が、私の抱いた感想は、たったのそれだけだったのである……。
『……うーむ、けっして中身のある記事とはいいがたいというのに、なぜ37件などというとてつもない数のコメントがついているのだろうか……』と疑心暗鬼に襲われながら『コメントのほうもちょっと見てみるか』と思い、コメント欄を開いて寄せられたコメントを見てみた。その瞬間、深いため息とともに全身の力が抜け落ちてしまった。
というのも、記事の内容と同様、コメントのほうも簡単であっさりしたものばかりだったからである。
中身があるとはいいがたい単純な記事に、なぜ37件もの厖大なコメントが寄せられたのか?この謎の答えをたくさんコメントを寄せられない私をあざけた礙さんにわかるだろうか?
わからないなら教えてあげよう。記事の内容が単純だからこそ、読者側もいちいち難しいことを考える必要もなく、パッパッと単純なコメントを気軽に書き込めるというわけなのである。
コメントの数が多いブログほど単純で中身のないブログだとまではいわないが、“コメントが多くつくブログほど内容の高いすぐれたブログ”という礙さんの考え方は単純すぎにもほどがあることだけはわかってもらえたはずだ。
一方、私のブログにつくコメントの数というのは、前述したようにひとつの記事に多くて5件くらいだ。
なぜ私のブログにつくコメント数は2桁に届かないのか?理由は私のブログの内容とレベルがあまりに高すぎるからだ。そのために読んだ人はコメントを気軽に書き込むことができないのである。
私のブログにコメントを書き込むには、ふたつの壁をクリアしなければならない。理解と感動のふたつだ。
まず記事の内容を理解するには高い知能とすぐれた理解力が必要である。そして理解をすることに成功をしたら、次は感動をしなくてはならない。感動をするためには豊富な知識が必要である。しかし感動をすることに成功したとしても、どのようなところに感動したのか、どのようなところが魅力的だったのか、それらを具体的に書き表す文才が必要になってくる。つまり私のブログにコメントを書くためには高い知能、すぐれた理解力、豊富な知識、そして文才、この4つの要素が必要だということなのだ。
しかし残念ながらこの4大要素を兼ね備えた人はそうそうはいず、私の記事にコメントを書く人たちはせいぜい高い知能とすぐれた理解力、このふたつの要素止まりの人が圧倒的多数を占めている。
しかし、あとのふたつの要素である豊富な知識と文才はこれからいくらでも獲得することが可能なものだ。
もしも私のブログをもっと深く理解してもっと深く堪能したい人たちは、これから先天的に備わっている高い知能とすぐれた理解力にくわえ、豊富な知識と文才を獲得していけばいいだろう。
……『また、なにを思い上がったことをいっているの?勘違いもはなはだしい』といった礙さんの疑問の声が聞こえてきそうだが、実は以前、私のゲストブックにこのようなコメントが寄せられたことがあるのだ。
「メシアさんにコメントするの難しいですもん……」
このコメントひとつだけで、私の今書いたことが私ひとりの勘違いでも思い上がりでもないことがわかるはずである。
私のブログにコメントを書くには多くの難関を突破しなければならず、知能や理解力が低く、知識も文才も乏しい人たちでは私のブログに理解・感動・共感のコメントを書き込むことは無理なことなのだ。
が、だからといって、前述した37件ものコメントのついたブログや、そのブログにコメントを送った人たちを蔑視しているわけではない。知能の高低やブログの好みなどは人それぞれ千差万別であり、単純な内容のブログがおもしろければおもしろいで自由に楽しんでいればいいだろう。
しかし、私がこれだけいっても頭の固い礙さんは、いまひとつ理解も肯定もしきれない状態がしばらく続くものと思われる。そんな礙さんに私の記事のひとつ━━
━━をお勧めする。
この記事にはたったひとつだけ(当時)コメントが寄せられている。そのたったひとつだけ寄せられたコメントの内容はこのようなものだ。
「いやぁ、メシアさんのブログは内容も濃くて読み応えがありますね!こんなふうに論理的にわかりやすく説明されると尊敬しちゃいますね★」
これたったひとつだけではあるが、このたったひとつのコメントはほかのブログに寄せられている単純であっさりしたコメントの100件分の重みがあるといっていいだろう。
礙さん、私の記事のひとつ《ロールプレイングゲームについて》を読んでみてくれ。そしてコメントを書いてみてくれ。そしてもしも嘲笑的なコメントが書かれていたなら、その時点で礙さんの知能と理解力が低いことが確定する。
賛辞や共感のコメントは難しくても、少なくとも好意的なコメントを書いたならば、その人は4大要素のうち高い知能とすぐれた理解力のふたつを兼ね備えていることを意味する。しかし嘲笑的なコメント、中傷的なコメントを書き込んだならば、その瞬間にその人は4大要素のうちたったのひとつも持ち合わせていない愚人に確定するのだ。
もしもこうした文を書く私を礙さんが“思い上がった妄想狂”と罵倒するなら、私の記事に賛辞と感動のコメントを送った人も“ただのイカレポンチ”と罵倒するつもりなのだろうか?
たしかに《ロールプレイングゲームについて》に寄せられたコメントはたったひとつだけだが、そのたったひとつだけの賛辞のコメントを送った人までも礙さんは狂人扱いするつもりなのだろうか?ぜひともこの質問に答えてもらいたい。
ところで、私のブログにもコメントはそれなりに寄せられてはいるが、礙さんのいうとおり、はっきりいって数は多いとはいえない。
この記事を書いている現在読者数は100人以上いるので、ひとつの記事にコメント100件とまではいかなくとも、半分の50件、そのまた半分の25件くらいはきてもよさそうだと思っているのだが、どれだけ期待を寄せても多くて5件程度なのだ。
その理由はくり返すように、読者の大半が4大要素のうち高い知能とすぐれた理解力、このふたつしか持っていないからである。
私の読者の人たちは、読者登録の際の1言メッセージに“興味深い”という言葉をよく使う。思い当たる読者もいるのではないだろうか?
そして私のブログを興味深く感じるというのは高い知能とすぐれた理解力がある証拠なのだ。
が、残念ながら、まだ高い知能とすぐれた理解力のふたつしか持っていず、まだ豊富な知識と文才がないために記事ひとつひとつにコメントを書き込むことができないのである。
読者が100人以上いるにもかかわらず、コメント数がさっぱりな理由はこのためなのだ。
また、『自分がわざわざコメントなどを書くまでもない。読ませてもらっているだけで充分だ』といった人も中にはいるのかもしれない……。
余談だが、この記事に寄せられるコメントの数も、多くてせいぜい5,6件くらいだと思われる。
しかし、それでもいいのである。
この記事に興味を持った人は高い知能とすぐれた理解力の持ち主であることを意味し、コメントを書くべく豊富な知識と文才を獲得していくのはこれからでも充分なのだから。
もしも私のブログをもっとディープに堪能したい人たちは、先天的に持っている高い知能とすぐれた理解力にくわえ、豊富な知識と文才をも身に付けていってくれ。