■ そして「最終便」

 

 最早30年近く前のこと。記憶にも記録にも残っていないが、様々なことから推測すると、昼過ぎには乗船名簿が配られたと思う。

 恐らく、8便としてJRRX「八甲田丸」が出航した12時15分から、それほどは経っていなかったのではないだろうか。

 

 最終便を待つ列の先頭から、定員に達するまでピンク色の22便「羊蹄丸II」の乗船名簿が配られる。筆者のところでは、まだ駅員の手にはピンク色の用紙が残っており、無事に確保できた。
 が、そこから数名で終了。クリーム色(だったと思う)の臨時先行8010便「檜山丸II」の名簿に変わった。快速「海峡1」号から22便へ乗り継げた人は、ほんの僅かだったようだ。

 

 ちなみに、前述した「八甲田」が超満員で「乗ることさえできなかった」友人は、よほど懲りたのか、今夜の急行「十和田」で青森から東京に戻るので、ギリギリだと危ないと思い、水色(これも記憶によれば)の15時発の20便の名簿を貰っていた。その記憶があったので、この乗船名簿の配付が「昼過ぎ」だった、と思ったのである。

 

 乗船名簿さえ手に入れれば、取り敢えずは安心だろう。
 そう思い、あとは函館駅周辺をウロウロして過ごす。日曜日で郵便局が休みなのは仕方ない。

 

 第1岸壁15時発の20便・JMUK「十和田丸II」と、それに乗って行く友人を見送ったりする。

 そうこうするうち、いよいよその時が来た。

 

 16時40分、第2岸壁から臨時8010便・JMMI「檜山丸II」が、最終便の「露払い」のように出航。
 22便に乗船する人は、30分前に集合、と言われていたので、この「檜山丸II」の出航を桟橋で見送ることはできなかった。

 

 30分前に集合させられた我々は、JRの係員の先導で、桟橋へと移動する。
 第1桟橋で待つ、上り最終22便・JQBM「羊蹄丸II」に乗り込み、取り敢えずは、座敷席窓側の片隅を確保し、甲板へと上がる。

 皆、考えることは同じようで、ほとんどの乗客が、岸壁側であるポートサイド(左舷側)に集中、「羊蹄丸」の船体が、大きく左に傾いているのは、船の上にいてもはっきりわかるほどだった。

 「羊蹄丸」と岸壁の間には、色とりどりの無数の紙テープ。この「別れのテープ」は、1964(昭和39)年7月に「津軽丸II」からテープを持っていた乗客が転落死する事故以来、禁止になっていたが、この3月から「解禁」され、最後の2週間は風物詩が復活していたのだ。

通常は放送で済まされる出航の銅鑼も、この便では船員が実際に銅鑼を鳴らし、いやが上にも盛り上がる。

 17時定刻の筈だが、とにかく(桟橋側も含めて)超満員だからか、名残惜しさが運航乗務員にも表れているのか、数分遅れて出航したと記憶している。

 

 遠ざかる函館を暫く眺め、船室に戻る。

 出航してから1時間ほど経った18時頃、青森15時発の5便・JHMI「摩周丸II」とすれ違う。あちらは、あと少し、18時50分に函館に着き、終航となる。6月から9月の青函博覧会に合わせた「暫定復活運航」に入るのは、こちら「羊蹄丸II」と、20便としこちらに先行している「十和田丸II」だけである。

 

 18時45分頃には、青森16時40分発の臨時8011便・JMMK「石狩丸III」とのすれ違い。

 そして19時頃、津軽海峡のほぼ中央で、青森17時05分発の下り最終7便・JRRX「八甲田丸」とすれ違う。


 通常の青函連絡船のすれ違いでは、上下の船は3海里(約5.4km)から5海里(約9km)程度は離れていたと思う。しかし、この日はどの便も比較的近くですれ違い、「八甲田丸」との「最終便同士のすれ違い」に関しては、相当近付いていた。
 普段だと、船影と、昼間であれば色などから「船名」は判別できたが、この時は、甲板にいる人影が確認できるほどで、1海里もなかったのではなかろうか。

 

 各船とすれ違うたびに、お互いに「長声一発」。そして、最終便同士では、一際長く汽笛を鳴らし合い、名残惜しそうに遠ざかっていく。
 もう、「鉄道連絡船」としての僚船とすれ違うことはないのである。

 なお、「ライター」氏がこの22便にも乗っており、どうやらほぼ同じような行程で動いていたのか。
 だが、鉄道雑誌の腕章を着けたままで、「読者」と思しき面々と肩を組んで、カップ酒片手に歩き回っているのには閉口。「アンチ」がいるのも理解できた。

 

 青森桟橋第2岸壁が近付く。
 第1岸壁には、先行した8010便「檜山丸」の姿が見える。

 

 定刻20時55分、青函連絡船上り最終便となった22便・JQBM「羊蹄丸II」は、青森桟橋第2岸壁に接岸。連絡船としての歴史に終止符を打った。

 桟橋では、ここでも猛烈な歓迎が待っていた。
 だが、名残を惜しむ乗客たちの足は遅く、下船するまでに相当に時間がかかったように記憶している。

 

 その夜、22時55分発の201レ・急行「はまなす」札幌行の列は、大したことはなかった。これならば、心配はいらなそうで、函館から「同業者」が合流しても、立ち席にまではならないのではなかろうか。
 21時発の臨時8204レ・急行「十和田」常磐線回り上野行に乗った友人も、ガラガラで拍子抜けした、と言っていた。

 

 ともかく、やろうと思っていたことは完遂した。
 この夜も含めて、列車や駅、船で夜明かしすること5連泊。いや、泊まってないし。
 今では、絶対に体力的には無理である。

 

 こうして、最後の「鉄道連絡船」を「堪能?」する旅は、一度終了。
 ただし、この4週間後、もう一つの「鉄道連絡船」をめぐる「狂想曲」が待っており、要するに「前篇」が終わっただけである。
 それに、この後、さらに4日間。道内でまた夜行列車で夜明かししながら100円テーリングする日々も待っているのだった……。

 

 ~ この項、完 ~