■ ♪上野発の夜行列車♪

 

 筆者は、現在「乗物マニア」と自称しているが、国鉄が分割民営化されるまでは「鉄道マニア」だった。

 その後は、広く乗物全般……と思っているが、実際のところ、鉄道以外で幅が拡がったのは「航空機」分野くらいで、バスや船舶は、それほど詳しい訳ではない。

 

 それでも、航空の世界での「しきたり」や「ならわし」は、元々、船舶の世界の流儀を汲んでいるモノが多いので、全くの「異次元」ではない。

 例えば、機体のことを「シップ(Ship)」、客室のことを「キャビン(Cabin)」と呼んだり、運航乗務員のトップが「キャプテン(Captain)」であること。
 原則として左舷側から乗り降りし、そちらを「ポートサイド」と呼ぶこと。一方で右舷側は「スターボードサイド」と呼ぶが、これは古来の船が右舷側に舵板(この「Steer Board」が転訛して「Star Board」になった)を備えていたため、それがない左舷側を接岸していたことに由来する。これが旅客機にも受け継がれており、飛行機に乗る時に「右側から乗り降りした経験がある」人はほとんどいないであろう。
 その他にも、遠くからでも他機(他船)から進行方向がわかるように点灯する燈火(航空機では「翼端灯」、船舶では「舷灯」)の色が、右が緑や青、左が赤、と決まっていたりするのも共通。正面にいる他機の翼端灯が、左から「緑・赤」なら、こちらに向かって飛んできているし、「赤・緑」なら同じ方向に飛んでいる、とわかる。

 

 また、郵便局巡り「100円テーリング」をしていると、どうしても船便しかないような「島」にも行く必要が出てくる。そうなると、嫌でも(別に嫌ではないが)船に乗らざるを得なくなる。

先日、十数年ぶりに伊豆諸島への東海汽船(7JRC・3代目「橘丸」)を利用することになり、また「船」がクローズアップされた。

 

 それだけではない。
 たまたま、ふとしたきっかけで、30年前をテーマにした小説を書くことになり、まだ「鉄道連絡船」が健在だった時代の交通事情などを改めて調べたりした。

 そうこうしているうちに、そう言えば、青函連絡船や宇高連絡船がなくなる時には、「一か月限定」とか言いながら「鉄道マニア」に「現役復帰」宣言したっけ、と思い出した。


 「鉄道連絡船」なので、厳密には「鉄道」ではなく「船舶」のカテゴリになるべきなのに、何となく「鉄道」カテゴリっぽくなってしまうテーマなのは、何故だろう。

 

 「鉄道マニア」は「(撮り鉄しなかったので、小結止まりで)引退したから」と言いつつ、JN1ZCT・100円玉友の会の島 航錯・書記次長や、秩父鉱山・首都圏総局長らからは「でも『年寄名跡』あるんでしょ、親方」と言われる始末だが、過去に少なくとも2度は「現役復帰」したという自覚がある。
 その1回目が、この「鉄道連絡船」廃止に絡む、1988(昭和63)年3月から4月にかけての約1か月であり、もう一つは1990(平成2)年2月から4月にかけて実施した「最長片道切符の旅(京葉線全通バージョン)」だと思う。


 その後は、テーリングに使う乗物が、鉄道だけでは行ける範囲に限界が出てきていたこともあって、バスやレンタカーも頻繁に使うようになり、一応「引退」状態にはなっていると思う。
 が、引退した元・プロ野球選手が「お前が言うな」的な(よく「喝!」とか言ってるロッテ⇒読売な爺さんが「守備」を語るような)解説をして「野球評論家」とか呼ばれているのを見ると、「これなら俺も『鉄道評論家』だわな」と思ってしまうが。

 

 そこで、今回は「船」つながりで、最後の「鉄道連絡船」について回想したい。

 

 1988(昭和63)年3月9日(水)の夜、21時18分に上野駅を発車した103レ・急行「八甲田」に乗った筆者は、翌10日(木)、定刻9時08分、青森駅に到着した。
 青函トンネルを含む津軽海峡線の開業、そして青函連絡船の廃止まであと3日と迫っていた現地や、そこに向かう「八甲田」のような列車は、一体どこから集まったのか、というほど人で溢れ返っていた。

 かつて、最盛期には年間500万人近くの旅客を輸送した青函連絡船も、末期には年間200万人程度にまで減少していたが、最後の1年間に限って見れば、260万人にまで増えたという。それまで連絡船になど乗ったことのなかった層までが「お別れ乗船」に来るようになった、と言われ、一大ブームになっていた。
 折しも、日本経済が「バブル」に向かっていた時代だったから、今とは随分時代背景が違っていたと思う。

 

 ~ つづく ~