(秋山兄弟生誕地所蔵)
勝田主計(しょうだ・かずえ)
勝田主計は、明治2年9月15日、松山城下の御宝町に松山藩士・勝田久廉の五男として生まれた。
その後、勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科に進み、卒業後大蔵官僚となり、理財局長を経て大蔵次官に就任、大正5年12月、寺内正毅内閣において愛媛県人初の大蔵大臣に就任する。
そして、大正13年1月、清浦圭吾内閣において再度大蔵大臣となり、前年(大正12年)発生した関東大震災の復興に全力で尽くし、新田長次郎が開発したベニヤ板を使い復興を早めた。
昭和3年5月、田中義一内閣において文部大臣となり、この時「渡邉スエ女の表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた。」この表彰碑の揮毫は、秋山好古が揮毫した。
主計は、大蔵官僚出身で三度大臣に就任する実力者、特殊な経歴をもった人物であった。
昭和23年10月10日没 享年79歳で永眠した。
末は博士か大臣かを目指して上京、勝田主計の先輩三名(秋山眞之・清水則遠・正岡子規)は東京大学予備門で勉学するも途中、清水則遠は志半ば病気で逝去し、秋山眞之は進路変更し海軍兵学校に進み、子規も東大に進学するも文学の道に進路変更して短詩形文学、特に現代俳句の基礎を築いた。秋山眞之の辞世の句に「不生不滅明けて烏の三羽かな」を詠んだ。これは、清水・正岡・秋山の三名の事ではないかと言われている。三名共に短命であった。(本日天気晴朗なれども波高し・・有名な名文である。)
後輩の勝田主計は、志のとおり大臣に就任、それも政府の中核である大蔵大臣に二度就任し大活躍した。よほどの実力者であったのであろう!!凄い事であった。
1,松山同郷会の設立に尽力
勝田主計は、同郷の海軍中将・秋山眞之とは2歳年下で、家も近所であったので親しい友人であった。
特に、秋山眞之が海軍兵学校在学中夏休みを利用して薩摩(鹿児島県)に出かけ、薩摩の郷中教育を視察、これを参考にして松山でも結成いたしたく、明治20年、古町の大林寺に書生40人を集めて青少年の教育の必要性を説いた。松山は、朝敵にされたため世に出るには教育を身につけることが必須うであった。
薩摩では、郷中教育で育った有名人は多く中でも、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通・東郷平八郎・大山巌・桐野利秋、等が居る。
明治21年、久松定謨の支援を受けて、秋山眞之・勝田主計・山路一善・小川尚義・らが松山同郷会を設立発足して同郷の青少年の文武両道の鍛錬育成に尽くした。
拠点は、現松山市2番町にある愛媛県銀行協会の地にあった。此の地は昭和20年7月26日、松山大空襲で消失し、その後現在の秋山兄弟生誕地に拠点を移し、昭和28年、東京の常盤会と松山同郷会を併せて、公益財団法人常盤同郷会が発足し現在に至っている。
初代理事長は久松定武氏で、現在は山崎薫氏である。
なお、同財団は、平成22年4月1日、愛媛県から公益財団法人移行認定第1号を頂き青少年育英を目的とする団体に認定され現在に至っている。
註:久松定武は、旧松山藩主久松家第17代当主久松定謨の二男で、公選愛媛県知事を第2代目から第6代目までの5期務めた。
2、常盤会について
明治16年6月、旧松山藩主久松定謨によって設立され、旧藩士子弟たちの学習援助組織として、日本橋浜町の久松家の邸内に「常盤会寄宿舎」として創設されたのが現在の「常盤学舎」の始まりである。
明治20年12月1日、上京する子弟たちの便宜をはかって、東大近くにあった本郷真砂町の坪内逍遥邸を購入し宿舎として創設されたのが現在の常盤学舎の始まりである。
宿舎で勝田主計は、子規らとともに生活し、勉学に励んだ。
当時の舎生には、勝田主計、正岡子規、桜井忠温、河東碧梧桐たちが寄宿舎生活をし、歴代の時代をリードする先駆者として世に出た。
歴代の舎監(監督)には、服部嘉陣、内藤鳴雪、秋山好古らが就任して子弟の指導育成に尽力した。
朝敵にされた伊予松山藩その嗣子達、世の中からは厳しい軋轢があった。活躍するには、教育を身に着けなくてはならなかったが、このことは一切口に出さず、ひたすら勉学に励み、時代をリードする先駆者として活躍した。
勝田主計は、東京で愛媛県人会を結成し郷土の後輩達を導いた。
大臣に3度就任この時代としては凄い事であった。
現在の常盤会宿舎(常盤学舎)は、昭和30年東京都東久留米市中央町一丁目に移転し現在に至っている。
東京都文京区教育委員会が設置した本郷4丁目にある説明板
平成17年5月13日撮影。
3,渡邊スエ女表彰碑文について
平成19年10月6日撮影。
場 所 : 西条市三芳「日切山 弘福地」山門前
碑 文 : 貞婦 渡邊スエ女 表彰碑
揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
建 立 者: 三芳村(三芳處女会・三芳青年団)
建 立 年 月 : 昭和 3年11月(御大典記念に)
碑 石 大 き : 高さ・1m74㎝ 表幅・1m22㎝ 厚み・16㎝
この表彰碑は、渡邊スエ女の貞操を「人の鏡として」徳を後世に称えるために愛媛県周桑郡三芳村(現・西条市三芳)が建立した。
表彰碑の裏面に、文部大臣・勝田主計が銅板に書き上げた献上文が埋め込まれている。
愛媛県は、渡邊スエ女の貞婦ぶりを称えて、小学修身書に書き綴った。
石碑の所在は、西条市三芳1415番地の弘福寺山門前にあり、石碑碑文は、三芳村村長が直に秋山好古校長に依頼した。(当時、秋山好古は北豫中学校校長であった)
表彰碑に文部大臣・勝田主計が銅板に書き上げた献上文が埋め込まれている。
勝田主計が書き上げた献上文
貞操の婦人に重んずべきは古今に通じて謬らず、今や斯の徳を発揮して人の亀艦たるべき者、現に其の人ある傳へざるべけんや。スエ女は寺町仁市の次女、弘化三年六月愛媛県楠村に生る。長じて同郡三芳村の農渡邊小市の妻となりしが、慶応二年小市リウマチスに罹りて病年と共に重く、明治七年よりは臥したる儘関節の痛みに昼夜號泣するのみ、スエ女寝食を忘れて病夫を看病する傍、貧苦の中に三人の子供を養育すること拾有餘年、一日の如く見聞する者皆同情の涙を濺げり、斯くて明治二十一年の秋小市病癒えずして終に永眠す。爾来スエ女は節を守りて苦しき生計を営みしが、三十六年六月に至りて病歿せり。スエ女一生の間、官府及び各種団体より表彰を受くること十数回、愛媛県は嘗って其の事蹟を綴りて人の鑑と題し、小学修身書に載せたり。郷人スエ女の徳を欽仰し、石に勤して之を後世に伝えんとし文を予に求む。よりここに梗概を叙すること斯の如し。
昭和三年秋十月
文部大臣 勝田主計
4,勝田 主計が揮毫した「伊豫絣創始頌功碑」
伊豫絣創始頌功の篆額揮毫
大蔵大臣 正四位 勲二等 勝田主計が揮毫した。
伊予絣頌功碑は、「松山市道後公園」に建立された。
※ 石碑の碑文は、菊屋新助と鍵谷カナの功績を称える文が刻まれている。
伊予絣が隆盛をきわめた大正6年(1917年)には、伊予織物同業組合が二人(菊屋新助と鍵谷カナ)を称える「伊豫絣創始頌功碑」を道後公園に建立し、篆額は当時大蔵大臣であった勝田 主計が揮毫した。
石碑右側に、大蔵大臣 正四位 勲二等 勝田主計 篆額・・と揮毫してある。
そして沢山の「伊豫絣創始頌功」の碑文が揮毫されている。
石碑左側に、大正6年7月 伊豫松山 南州外央 近藤元粋 撰併書と揮毫してある。
※ 篆額とは、石碑など上部に篆書体で書かれた題字。
道後公園に建立されている、勝田 主計が揮毫した「伊豫絣創始頌功碑」石碑で、場所は松山地方気象台が管理する「染井吉野桜」観測標本樹のすぐ近くに建立されている。
道後公園に建立されている、勝田 主計が揮毫した「伊豫絣創始頌功碑」の裏面で、大きな三段構えの花崗岩でこのような造りの石碑は見たことない。
5,勝田主計の銅像
奥道後壱湯の守に併設されている奥道後歴史記念館に令和5年3月29日移設展示された「勝田主計銅像」。
(令和5年5月24日、同記念館の許可を得て撮影)
山頂の展望台に建立された当時の「勝田主計の銅像」
勝田主計の銅像は、生誕100年を記念して、昭和44年、勝田主計の偉大な人物像を慕う郷里の有志、奥道後創設者坪内寿夫氏や、新幹線の生みの親、国鉄総裁を務めた新居浜市出身の十河信二氏たちによって奥道後山頂の杉立山標高669mの展望台に、高さ2,8mの勝田主計の立像が建立された。
奥道後ホテルと山頂の展望台公園を結ぶロープウェイが平成21年運休閉園となり、現地に気軽に行けなくなり、人目に触れることがほとんどなくなった。
杉立山頂山から松山平野を見守って来た勝田主計銅像は、勝田家御子息の方々から下界におろしてほしいとの要望があった。
令和5年3月20日、奥道後国際観光ロープウェイの施設撤去に伴い勝田主計銅像を、奥道後壱湯の守に併設されている奥道後歴史記念館に同年3月29日移設展示された。重さ600kgの銅像移動は難を極めた。
今回の移設は、郷土の偉人、勝田主計(第20代大蔵大臣・第24代大蔵大臣、第37代文部大臣)を努めたこの人に再び光が当たるよう期待して、「奥道後壱湯の守・奥道後歴史記念館」に移設されたことは立派な行為である。
勝田主計銅像は、西条市出身の彫刻家・伊藤五百亀(いとう いおき)の力作である。
杉立山頂山展望台公園で開催された勝田主計銅像除幕式。









