広島県府中市上下町にある曹洞宗護国山善昌寺さんのHPにのっている
記事ですか
先年、ある講演会で、かねてより願っていた、
酒井大岳老師のお話を拝聴する機会に恵まれました。
酒井老師は、その中で次の詩を紹介されていました。
この詩は、鈴と小鳥と私と、それぞれの特色の中に生きている、すばらしさを歌いあげています。
仏教では、修証義に
「無上菩提を演説する師にあわんには、種姓を観ずることなかれ」
とありますように、平等の教えを説いています。
では、全く平等かというと、そうともいえません。
昔、お釈迦さまのお弟子の中に、王族の髪を結っていた床屋がいました。
ある日のこと、この床屋に髪を結わせていた王族が、お釈迦さまの弟子に、なろうとしてやってきました。
弟子入りを許された王族は、教団に入る儀式として、先輩上席者の足をいただいて礼拝して廻りました。
ところが、この王族が、以前髪を結わせていた床屋のところまで来たところ、王族は、
「私は彼の主人でした。私は、彼の足だけは拝することができません」と、お釈迦さまに、いいました。
お釈迦さまは、
「生死を越えた求道者には、階級の差別などありはしない。
出家人の儀式は、この人間平等の根底にたちながらも、古参上席者への礼として、
先輩たる上席者を礼拝しなくてはいけない。
驕慢(きょうまん)の心を捨てよ」と、ついに王族の新弟子に、床屋の足を拝させたというお話があります。
カースト制の身分階級の厳しかった当時のインドにおいて、
カースト制の階級を越えた、お釈迦さまの仏教教団は、まさに革命的でした。
しかしながら、この革新的な平等を教えるお釈迦さまは、
平等の中にまた、厳然たる秩序のあることも教えておられます。
私たちは時々、一方を追求することに熱心なあまり、
他方がおろそかになり、結果的に偏った物の見方を
してしまうことがあります。
「仏教は中道の教え」といいますが、
どれか一つのものに執着した、とらわれの心は、捨てさらねばなりません。
「鈴と、小鳥と、それから私、
みんな ちがって、みんな いい。」
この観点を、しっかりと味わってゆきたいものです。
ということで、今の世の中いろんな人がいます
人種、性別、考え方、体つき、勉強や、運動、仕事などが出来る事や、
好きなもの、など、いろんなものに対して
「○○以外は問題外」と言って、
それに反するものを、排除しようとするのは、やはり言うべきでは、ないですね
特に近年は、多様性が重んじられてきていますからね