「拳の中に小さな小鳥を握っているようなつもりで」とか、
「小魚の群れが一斉に向きを変えるような感じで」
などというような、
様々な「譬(たと)え」表現を用いたアドバイスを受けることもよくあるのではないかと思います。
・譬えの効用
「譬え」は、相手に未知の事柄を理解してもらうために、ある意味では全く関係のない、その人にとっては既知の事柄に関連づけることで、イメージをしやすくしようとするものですが、
これが上手く成り立つためには、話し手と聞き手の間である程度イメージを共有出来ている必要があり、聞く人が話し手の意図通りに譬えられている事象を連想出来なければ、せっかくの譬え話もチンプンカンプンという感じになったり、目的から話が逸れてしまったりということにもなりがちです。
ですが、上手く伝われば、例えば扶助操作や随伴、バランスの取り方といったことについての容易には言語化しえないような微妙な感覚を騎乗者に直観的に理解してもらうことで、主体的に動いてもらえるようにするためには非常に有効なものですし、
そのようにして同じイメージを共有することは、学習者と指導者との間に、ある種の信頼関係のようなものを築くことにもつながるだろうと思います。
日本の古武術の世界でも、技法を伝え心得を悟すための「得道歌」といった形で、多くの譬え表現が用いられています。
例を挙げると、
「分け登る 麓のみちは多けれど 同じ高嶺の月をこそ見れ」
(上達の方法は色々あるが、目指すところは同じである)
「春雨の 分けてそれとは降らねども 受くる草木はおのが様々」
(同じように教えても 相手によって受け取りかたはそれぞれである)
といったものがあります。
現代のように、昔はなかったような様々な概念が言語化され、周知されている時代においても、微妙な身体操作の感覚といったことを言葉で表現するのは、なかなか難しいものですから、
そうした言語化の進んでいなかった時代の馬術書などでは尚更、自然界の草木や水、風などの動き、鳥獣の動作といったものになぞらえた、詩的とも言えるような譬え表現で語られることになったのだろうと思います。
私たちが昔の馬術書などを読んだ時に感じる難解さも、現在の私たちとは生きている環境の大きく異なるであろう書き手の意図通りに、説明されている内容をイメージすることが難しい、ということが原因の一つになっているのかもしれません。
・譬えの「落とし穴」
譬えを用いた解説や伝達の方法には、良い面ばかりではなく、聞く側として注意を要する「落とし穴」とも言うべきものも存在します。
譬え話というのは、聞いているとなんだか納得してしまうものですが、
そもそも便宜上のもので、理論的な根拠はあまりなく、細かく分析して考えてみれば結構矛盾していたりするものです。
それだけに、一つ一つの教えをそのまま鵜呑みにしてその言葉に囚われてしまうと全体の整合性がつかなくなり、混乱してしまったり、
恣意的な解釈によって間違った方向に進んでしまったり、といった危険もあるのです。
宗教の世界では、乗馬や武術以上に多くの譬え表現が用いられているわけですが、
その中で、そうした譬え話の矛盾点をむしろ活用し、言説を超えた境地を追求しようとするのが、禅宗の「公案」だろうと思います。
上級者のレッスンなどを傍で聞いていると、外からでは全く意味がわからないような感覚的な表現が飛び交い、言葉をそのまま受け取ると矛盾だらけでわけがわからかったりして、まさにコンニャク問答、野狐禅というような感じだったりしますが、
身体を通して直観的に自然の構造を理解しようとするという意味では、禅も馬術も同じだとも言えますから、突き詰めていけば必然的にそういう感じになっていくのでしょう。
「落とし穴」には注意が必要ですが、
身の回りの色々なものの動きなどに着目しながら、乗馬に役立つような「譬え」を考えてみるのも、楽しいかもしれませんね。